ノーウィック・グレイ
チェックイン時、コテージの主人、リキ氏が、客のため用意した玄関先ドレッサーの蔵書から、とある本を紹介してくれた。イマキュリー・イリバジザによるこの「レフト・トゥ・テル」は、司祭宅の、押し入れほどの広さしかない風呂場に七人の女性と何ヶ月も身を隠し、90年代のルワンダ大虐殺を生きのびた著者自らの痛ましい体験記だ。静けさに包まれた珊瑚礁を越えて浜辺に寄せる遠い波音に心を落ち着かせながら、丸二昼夜、別世界のようなこの狂気と残忍さのリアリティーに没頭させられた。
むしろ既に後だったかも知れないが、事件勃発時のルワンダについて確かに聞いた覚えはあった。だが私の得た情報は遠来の断片的なもので、しかも当時私はブリティッシュ.コロンビアの山の中に住んでおり、そのまた楽園のような場所で、このような報道の裏側まで知り得ようはずがなかった。いずれにせよ、西洋世界は、この「何か悪いことがまたまたアフリカのどこかで始まったらしい」といううわさに見て見ぬ振りを決め込んでいて、当時の報道範囲は限られていた。
だが、悪魔のような残虐を目の当たりにした体験談を読み、私は胸を打たれた。虐殺された百万におよぶといわれる人々は、その数字以上のものに初めてなった。殺戮者から「ゴキブリ」、欧米の政府、メディアから無名の「死傷者」扱いされていた犠牲者、生存者ひとりひとりが、物語の中で沸き上がるような現実味、人間味を帯びたのだ。この悲劇の一語一語が私の一部であり、ひいては人類共通の概念、情念の一部なのだろう。この悲劇は今見ている平和の極みのような風景と対照をなす。だがそのことにあまり意味はない。この風景が安らぎに満ちているからこそ、暴力と憎悪のリアリティーを感じ、包み込み、吸収することができるのだろう。そこが重要なのだ。監禁状態の間、イマキュリーは心の支えを神に求め、ついには一族、家族が殺されたことを受け入れるまでになるほどの深遠な安らぎの世界を得たという。この柔軟な寛恕は、まさしくこのようにしてのみ可能だったのだろう。
ある日本人著者がPDFファイルで送ってきた「ドラゴン・オブ・ザ・マングローブス」もまた悲惨な話だった。彼、葛西泰行は、調査を重ね、第二次大戦末期、ビルマ海岸部での日本兵による撤退作戦の顛末を詳細に書き上げた。この太陽の帝国の疲れ果てた落伍兵には、肉迫するイギリス軍の絶え間ない脅威だけでは悪夢と呼ばせるに不足だといわんばかりに、ついに運命は彼等をして鰐が横行する河を越え自由への脱出を試みさせることになる。
ここでまた私は、今いるこの悦楽の世界には事実、人食い鰐も生息していることに気づき、今まで「敵」と思い続けてきた兵士たちにも、親しみ深い人間性があったことを認識した。先入観を突き崩されることは、反転した世界観を認める機会になる。ここの文脈では「敵」は連合軍をさすのだ。この反転は、日本人著者の明瞭で冷静な英語の文体と、どのような民族、どのような帝国に属するかの如何を問わず、人間に取って古来、より原初的な敵であった爬虫類の姿に託されたドラマチックな構成によって遂げられている。
この二冊がもたらした死と破壊のイメージは強烈だ。しかし、ほかのすべての点で悦楽のイメージのみが支配的なこの島の雰囲気を調えるには、これだけでは不十分と思ったのか、私はドレッサーからもう一冊手に取った。ジョン・グリシャムの最近のノン・フィクション、「無実の男」である。またもや殺人の話、正確にはオクラホマで、はなはだしい誤審を伴い有名になった殺人事件裁判の話だ。この刑事裁判形式主義の犠牲者といえるロン・ウイリアムソンはその人生が暗転を始める前、大リーグにドラフトされた経歴の持ち主で、大いに興味を引かれた。
こののどかな風景の中で、グリシャムの著書がほかの二冊と共有したもの、それは、ありがちな偏見や文化的無知を打ち倒すのにこれもまた貢献しているところだ。一体どちらが悪者か。一体「奴等」とは誰で、「我等」とは何者か。「我等」の概念が「奴等」と共になるまで広がっていった時、楽園とは、失われるものではなく、見いだすものになるのだろう。
この話の流れの締めくくりに、ハネムーン島での珊瑚礁クルーズの昼食後、ガイドから聞いた物語を思い出した。昔、クック諸島がまだ部族対立の戦乱に包まれていたころ、ある島を手中に収めようとしていた武装集団が、島中の大人の男を皆殺しにする計画を立てていた。ちょうどそこへ宣教師団が到着し、我々は人間としてひとつの家族なのだから、殺し合うのはやめにしようと、戦士たちを説き伏せたという。
これを聞いた私は、今までこれらキリスト教伝道師に抱いてきた偏見から解放された。中世ヨーロッパから続いた植民政策遂行に従順に身をささげ、ひいてはかつて南太平洋の楽園だった島々を、文明化の名の下に観光資源と核実験場に変えてしまった罪にも関わらず彼等を許す気になったのだ。
人が許しを知り、思いやりと捕われのない真心を持てるなら、旧慣を捨てさせられることにも、監獄で費やされた焦心の年月にも、戦争や大虐殺にさえ、皆意味があるのかも知れない。 この楽園は絵葉書などにありがちな夕日の景色の向こう側をのぞく方法を私に教えてくれた。水平線上はあまりにうつろなので、目を凝らせば、龍や悪魔の姿さえ見えてくるのだ。だが奴等はそこに潜んで私が来るのを静かに待っているような種族ではない。見れば見るほど、なじみの姿に形を変える。それが戦闘カヌー船団に乗った戦士か、キリスト教伝道師か、カヤックを漕ぐ観光客なのか、そこまでは分からない。いずれにせよ、私はこの砂浜で奴等のために、ココナッツとパパイヤを用意して、かがり火をたいておこう。