「桑田先生、中谷さんが痰を詰めて・・・!」
ナース・ステーションのインターホンに看護婦の切迫した叫
び声が響き渡り、午後の回診のあとのホッとしたざわめきが、
急激に途切れた。凍るような沈黙と戦慄が室内を支配し、全て
の動きが一瞬止まったかのようにみえた。
「バキューム、レスピレーター、それに緊急手術の用意・・
・・・!」
叫びながら医長の桑田はナース・ステーションの扉を力一杯
押し出し、修一の病室へと走った。修一の胸に手をあて、全体
重を一点に集めながら祈るような表情で人工呼吸を施している
若い看護婦が顔を上げたとき、病室のドアを荒々しく押し開け
ながら、桑田が入ってきた。
「どうしたんだ!」
「痰が喉に詰まって、呼吸が・・・」
「停まったのか!」
「ハイ!」
「喉頭鏡! 挿管の用意!」
聴診器で心音を確かめながら桑田は病室に入ってきた婦長に
低く指示した。喉頭鏡を手にした桑田が、修一の口をこじ開け、
痰の位置を確認、バキュームにより痰が吸引されていった。
気管支チューブが挿管され、二度、三度、桑田の口により空
気が送り込まれた。修一の呼吸は甦ってこなかった。もう一度
桑田の口から気管チューブを通って修一の肺の中に空気が送り
込まれた後、レスピレーターが接続された。規則正しく作動す
るレスピレーターの音に合わせて修一の胸が上下に動いていた。
聴診器を修一の胸に押しあてていた桑田の表情が和らいだ。
「何分経った?」
「呼吸停止から約十分少々です」
まだ緊張の糸が絡みついたままの当直看護婦が固い声で伝え
た。
「・・・十分か・・・」
「先生!」
婦長がこわばった表情で桑田の指示を待っていた。呼吸停止
十分が意味するものが何であるか、桑田をはじめ、婦長も、若
い看護婦も、誰一人として想像できないものはいなかった。桑
田も又、十分という重みを何とかはね返そうと、頭の中で必死
に計算をくり返していた。
呼吸停止からインターホンでの報告を受けて病室までの時間
が約六分、喉頭鏡から吸引終了までに約二分半、挿管が一分、
レスピレーターの接続までに凡そ三十秒・・・そして計測でき
ない流れ去った何分か! どう控えめに計算しても、十分の壁
を突き崩すことはできそうにもなかった。脳死・・・。病室の
誰もがいだいている最悪の想像は、もはや否定することのでき
ない事実として重くのしかかってきていた。
「先生!」
すでに事態の全てを把握していた婦長が気管切開の準備を終
え、桑田の次の動作を待っていた。例え、レスピレーターの助
けを得て自発呼吸が甦ったとしても、次に来るもの、そしてそ
の次に修一を襲うもの、そしてその結果は・・・、その想像が、
桑田の決断を鈍らせ、動きを止めたのだった。
けたたましい足音と共に修一の母と姉が病室になだれ込んで
来た。
「先生、修一は? 修一は?」
「修はどうなんでしょうか? 先生!」
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修一の母と姉の言葉が、停まりかけていた桑田の思考を再び
揺り動かせた。
「今から緊急手術をします、短い時間ですから、病室の外で
待っていて下さい。詳しいことは手術のあと申し上げます」
桑田の言葉を受けた婦長の無言の合図で、母と姉は室外へ去
って行った。レスピレーターの装着後取り付けられたハートモ
ニターのブラウン管の中に、規則正しい波形が描かれては消え
ていった。はだけられた修一の胸の上にグリーンの手術布がか
けられ、婦長がゆっくりとうなづいた。
すでに意識のない修一ではあったが、桑田の手により気管の
周囲に浸潤麻酔が施され、環状軟骨の下部から下に凡そ三十五
ミリ、正中線に沿ってメスが加えられた。皮膚切開による出血
は殆どなかった。左右の胸骨甲状筋の間に切線が入り、フック
により筋肉が左右に押し拡げられていった。
手術野に現れてきた二、三の小静脈をコッフェルで掴み、解
剖ピンセットで軟部組織を剥離すると、気管輪が姿を現した。
小鋭鉤を環状軟骨に引っかけ上方に引っぱり上げた桑田は婦長
から手渡された小型のメスで気管輪を三本、一気に切り開いた。
気管カニューレが創腔から挿入され、皮膚が二針縫合された。
凡そ三分が過ぎていた。挿入されていた気管支チューブが外さ
れ、カニューレにレスピレーターが接続された。修一の胸は規
則正しく上下運動をくり返し始めた。桑田の合図で部屋の外で
待っていた母と姉が恐る恐る入ってきて、桑田の方をじっとみ
つめた。
「痰を喉に詰めて呼吸が・・・、呼吸が十分位止まってしま
いました・・・」
桑田はどう説明すべきか迷いながら言葉を継いだ。臨床医と
しての経験からも、このような事態には何度も遭遇しているは
ずであるが冷静さを取り戻すには相当な時間を要した。
「人工呼吸器で今の所、正常な呼吸に戻っていますが、今後
の呼吸管理の必要性と、舌根沈下等の最悪の事態に対処す
るために気管切開を行いました。しばらく様子をみること
にしますから・・・」
桑田の口からは堅い言葉しか出てこなかった。
「先生、修一はどうなんですか? 大丈夫なんでしょうか?」
「解りません・・・。しかし希望は捨てていません」
言いながら桑田は自分を呪いたかった。いったいどういう希
望があるのだろうか! 呼吸停止に伴う脳の破壊、脳浮腫によ
るショック症状、腎不全を引き起こし尿毒症の併発、全身衰弱
による肺炎症状の心配、何一つ希望的観測はないではないか。
気休め一つ言うことすら出来ないクランケの症状を想像する
だけで、何も成すことのできない自分に腹を立てながら事後の
処置のためナース・ステーションに引き返して行った。
廊下が暗かった。
「母ちゃん、どうしたらええのん?」
「ウン・・・」
「修ちゃん、助かるやろね!」
「・・・解らん・・・けど助かってくれんと母ちゃん困る、
困るんや!」
「もう一回先生にお願いしてくる。母ちゃん、修のそばで待
っててや!」
「何でこんなことに・・・、痰が喉に詰まるやなんてアホな
ことが・・・」
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