『母ちゃん、どこにいてるの?』
長い廊下を運ばれながら、修一はそう言って母の姿を捜した。
そして、やっと病室の前で修一の目は母と姉の姿を見つけだし
た。
『母ちゃん! 姉ちゃん! 僕は大丈夫やで、心配せんとい
て! ほら、手も動くし、足も動くんや、な、母ちゃん!』
修一はそう言いながら、彼の手を足をバタバタと動かしてみ
せた。しかし彼の母も、姉も、じっと心配そうに修一の方を見
ているだけであった。何の返事もなかった。
「先生、ご指示は?」
看護婦の声がベッドの足元の方から聞こえてきた。酸素テン
トの中に入れられているため修一の視界はかなり限定されてい
たが、自分の右手首を握り、点滴の速度を確認している白衣の
主治医らしい人物を目の片隅に捕らえることは出来た。
「オペは大丈夫だと思います。別にこれといって心配な点は
ありませんのでいつも通りで結構です」
「解りました」
「それと、意識が戻ったら知らせて下さい! 今の所はそれ
ぐらいですね」
『意識が戻ったら・・・だって。僕は初めから意識なんて失っ
ていないのに』
修一はそう思った。だが口に出すことを控えた。
「先生、どうもありがとうございました。修一はどうなんで
しょうか、助かるんでしょうか」
母が言った。
「今もお聞きになったように、手術は成功しました。頭の中
にも、これといった傷はなかったようです。ただ、手術に
入るまでに七時間近くも経っていましたので、血の塊が脳
を圧迫したのではないかと思いますが・・・」
主治医の梅野が、母親になるべく分かり易い言葉を選んで説
明している声が修一にも聞こえた。
「先生、脳を圧迫すると駄目なんでしょうか?」
「何とも言えません。二、三日も経てば解ると思いますが・
・・・・」
「・・・・・」
「もう三十分もすれば目が覚めると思いますから、その時は
詰め所の方に知らせて下さい。それと何か異常があった時
には、このボタンを押して下さい。お大事に!」
看護婦と主治医の梅野が出て行ったあとの病室に残っていた
のは、微かな血の匂いと、病室独得のクレゾールの匂い、そし
て修一の母と姉だけであった。姉は下唇をかみしめたまま、終
始無言であった。大きな両の瞳と頬に、涙の跡が残っていた。
『姉ちゃん、心配せんかてええで! 大丈夫や、ホンマに大
丈夫や!』
そう言って修一はほんの少しだけ開いていた瞼と瞼の隙間か
ら姉の顔を見て笑いかけた。
「母ちゃん! 修ちゃん、何や笑うたみたいや!」
びっくりしたような姉の声につられて、母が修一を覗き込ん
だ。修一には何の変化もみられなかった。
「気のせいやろ、まだよう眠っとるわ」
『気のせいやない、ホンマに笑うたんや!』
修一はそう言って、母と姉にもう一度笑いかけた。が、姉も、
母も、修一の笑いには応えなかった。
三十分近くが過ぎた頃、先刻の看護婦が観察日記と血圧計を
持って入ってきた。
「目は覚めましたか?」
「いいえ、まだのようです」
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母の返事を待たず、その看護婦は修一の左の腕に血圧計の布
を巻きつけ、空気を送り込んできた。
「中谷さん・・、中谷さん、目を開けて・・中谷さん、目を
開けてみて!」
修一は言われるままに目を開けて返事をした。
「まだ麻酔が醒めないようですね。あとでもう一度来てみま
す・・・・・」
そう言って看護婦は出ていった。
『気がつかないだって・・・! 目も開けたし、返事もした
のに、どうして気がつかないんだ!』
修一は精一杯の力でそう言ってみた。だが返事はなかった。
「修ちゃん、修ちゃん!」
「修、目を開けて!」
姉と母の声であった。
「母ちゃん、まだ気がつかんのやろうか?」
「ウン・・・」
「大丈夫やろうねえ」
「・・・ウン」
二日目の午後、父と友人達が病室に来た。祐子もその中に居
た。心配そうな顔つきで、じっと修一の方を見ていた。
「修一君、どうなんですか?」
「それが、まだ意識が還ってこないんよ・・・」
「大丈夫なんでしょう? 修一君」
「先生は、今日、明日が峠や言うてはるけど・・・」
「大丈夫ですよ、きっと」
「ありがとう・・・」
母と友人達が喋っている間も、祐子はただ黙って修一の方を
見ているだけであった。瞳の奥に涙が光っていた。
『祐子、ごめんね、心配やったやろ! けどもう大丈夫や、
心配あれへんで・・・』
修一は祐子に向かって笑顔でそう言った。祐子の返事はなかっ
た。
回診の時間であった。友人達は帰って行き、病室には、母と
修一の二人だけであった。
「対光反射、マイナス。痛覚、なし! 意識、マイナス。プ
ルス、六十五。体温、六度三分、変化ありません!」
「ドルックは?」
「スイマセン、百十から七十です」
極く簡単な診察のあと、母が尋ねた。
「先生、悪いんでしょうか?」
「解りません。出来る限りのことはしていますから・・・」
「ダメなんでしょうか?」
「・・・もう少し様子をみましょう」
「どうか、よろしくお願いします、先生!」
『母ちゃん、僕は物も言える、目も見える、足も、手も動く
んや! 何で返事してくれんの! 何で誰も気ィついてく
れへんの! な、母ちゃん、聞いて、返事して! 僕は生
きてるんや!母ちゃん、先生、お願いや、返事して!
助けて!』
修一は二日二晩そう叫び続けた。しかし、修一のその叫びは
誰の耳にも届かず、誰も修一の言葉に気づかなかった。それで
も修一は許される限りの力で叫び続けた。
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