時 計 よ 廻 れ!



SUBDURAL HEMATOMA
 「出血がひどいようです! ドルック60から20!
  プルス45! ブルートを早く!」

 麻酔医の緊張した声が、オペレーションルームのタイルに響
き渡った。

 「輸血を早めて!」

 オペレーターの落ち着いた指示が、修一の耳に届いてきた。

 「桑田君、どこか他に損傷部位があるようですか?」

 「C・A・Gの結果では右側頭部の陥没骨折と硬膜外出血の
  他には異常は認められませんでしたが・・・」

 「・・・そうでしたね・・・。時間が大分経っているようで
  すね! 急ぎましょう!」

 オペレーターとサブオペレーターの間でごく簡単な会話があっ
たあと、再びあの「ゴリッ、ゴリッ!」という音が修一に伝わっ
てきた。陥没した頭蓋骨の回りに六ヶ所、小さな穴がドリルに
よってあけられ、その穴からドス黒い血が流れ出してきていた。

 「硬膜外出血に間違いないようです。開頭に移りますが、全
  身状態はどうですか?」

 「落ち着いています。どうぞ!」

 『頭の骨を切り取るだって! 僕は大根やゴボウじゃあない
  ぜ。もういい加減にしてくれよ! アッ、又麻酔管を口の
  中に入れてきた。喉が痛い!口が動かなくなってきた!
  オイ、もう止めてくれ、嫌なんだよ!』

 修一は懸命にそう怒鳴った。しかし、その言葉は修一にだけ
しか聞こえなかった。

 一万回転で唸っている頭蓋骨切開用の電気ノコが、皮膚をは
がされ、白い骨だけになっている修一の頭蓋骨に軽く押しつけ
られた。ストライカーの軽い回転音と、ごく僅かに伝わる頭蓋
骨が切り取られる時の摩擦音だけが手術室の中で生きていた。

 「クラニオトームの調子がよくないなあ」

 オペレーターが低く口の中で囁くのが修一には、はっきり解っ
た。


 修一を待っているはずのガールフレンド、祐子の姿が目に浮
かんだ。手に純白のバラの花を持ち、大きな両の瞳でじっと修
一の来るはずの遠くの道を見ている祐子の姿が、だんだんと白
け、濃い霧の中へ埋没して行くのを必死の形相で追いかけよう
としている修一がいた。

 「何分位かな?」

 「五十分経過しましたが、何か?」

 「いや、クラニオトームの回転が低いようなんだ・・・」

 「スペアーを用意しましょうか?」

 「ウン・・・。いや、このまま続けよう。時間が惜しい!」

 ストライカーの回転刃が、修一の頭蓋骨に開けられた穴から
穴へと移動して行き、最後の一つに辿りついた時、再び麻酔医
の緊張した声が修一の耳の中へ飛び込んできた。

 「血圧四十から十! 出血がまたひどくなっているようです、
  急いで下さい!」

 「何をしているんだ! 早く骨膜剥離子を渡せ!」

 額にうっすらと汗を浮かべたオペレーターが介添えの看護婦
を怒鳴りつけた。
 骨膜剥離子が対角線上の二つの穴から穴へと硬膜を傷つけな
いように通され、挺子の原理を応用して陥没した修一の頭骨が
持ち上げられるように外されていった。

 「先生、容態が悪化しています!」

 「心電図は?」

 「乱れてきています!」

 「出血が続いているらしい。輸血をもう少し早く! 血腫を
  早く採らなければ!」
 何か冷たいものが修一の頭の中をかき回しているようであっ
た。時々、砂を噛んだ時のようなあの嫌な感触が頭の中を走っ
た。

 修一は、ガールフレンドの祐子と一緒に海に泳ぎに行った日
のことを思い出していた。その日の日記には、楽しかった海で
の一日が几帳面な字体でぎっしりと書かれていた。


 堅く固まっている血をスプーンで削ぎ取りながら、オペレー
ターの梅野は、サブオペレーターの桑田に目配せをした。患部
の状態も、骨折線の長さも、すべてレントゲン写真で事前に予
測した通りであった。挫創部位の止血も順調に進んでいた。

 「桑田君、どう思いますか?」

 「そうですねぇ…、受傷から開頭まで七時間も経っています
  から・・・」

 「・・・ウン・・・」

 『一体何を言っているんだ! 僕には意識もあるし、何をし
  ているか、どこを切られているかみんな解っているんだ、
  早く済ませてくれよ! 気分が悪いんだ。早く祐子に知ら
  せなければ、祐子が余計な心配をするんだ!』

 修一は出来る限りの声を挙げてそう叫んだ。必死に口を動か
せ、脚をばたつかせながら、修一は母のあの丸い笑顔を想い浮
かべていた。

 『母ちゃん、助けて! 助けてくれよぅ。なあ母ちゃん! 
  もう嫌や。変な音はするし、何で僕がこんな目に遭わんな
  らんの? もう嫌や、なあ母ちゃん、何とかしてぇな!』

 まるで母がすぐ傍らにでもいるかのように、修一は動かぬ口
で叫んだ。雨の激しく降る梅雨の日、傘を忘れた修一のために、
自転車で、自分はずぶ濡れになりながら学校の門の所まで迎え
に来てくれた母。又、幼い修一が父にひどく叱られた時、涙を
目に一杯ためながらかばってくれた母の姿が、走馬燈のように
意識のないはずの修一の脳裏を通りすぎていった。

 「血腫除去、完了しました」

 サブオペレーターの桑田が低く告げた。

 「硬膜には異常はないようですが、念のため硬膜の一部を切
  開したいと思います。クランケは大丈夫でしょうか?」

 オペレーターの梅野が麻酔医に尋ねた。

 「プルス72、ドルック、120から80、呼吸、16、心
  電図、心音、異常なし、どうぞ!」

 「桑田君、ボビーの出力を最低に!」

 「ボビーの出力最低に戻しました、どうぞ」

 白い硬膜がフックで引き上げられ、電気メスが患部の中心付
近を五センチ程切り開いていった。白い硬膜の下で白黄色の脳
が脈打っていた。指で押せば豆腐のようにズブリと入り込むぐ
らい柔らかく白に近い白黄色の脳の部分には、何の変化もみら
れなかった。

 「硬膜下血腫もないようだし、脳の損傷もないようですね」

 オペレーターの梅野が、サブオペレーターの桑田に確認する
ように言った。

 「閉じます!」

 開頭とは逆の順序で縫合が行われていった。硬膜が細い糸で
縫い合わされ、用心のため、術後三週間経ってから埋め込まれ
ることになった頭蓋骨を除いて、筋肉の縫合も、頭皮の縫い合
わせも、すべて順調であった。ただ頭皮の縫合のとき、コッフェ
ルが外されるあの「ギリッ」という甲高い金属音と、ドロッと
流れ出してくる血の感触が修一にはたまらなく気分の悪いもの
であった。

 「ありがとうございました」

 「お疲れさまでした」

 手術の完了を告げるオペレーターと麻酔医の短い会話のあと、
修一の体は何人かの手によって持ち上げられ細いストレッチャー
の上に横たえられた。