修一の家は農家である。高校三年の修一は最後の夏休みを外
で働いている父に代わって果樹園での作業に追われながら過ご
していた。。
その日、修一の父は仕事の都合で前夜から会社に泊まり込ん
でいた。姉も暗いうちに家を出て友人と海へ遊びに行くことに
なっていたため、早朝からミカン畑に薬剤を撒布する作業は母
と修一の仕事になっていた。
修一の計画では、その日はガールフレンドと共に汽車に乗り、
遠くの町まで大学受験のための本を買いに行くことを口実に夏
休みの一日を楽しく過ごすことになっていた。しかし、母一人
に仕事を押しつけるわけにもいかず、といってガールフレンド
との約束を御破算にすることも、又出来なかった。
外はまだ暗かった。少しでも早く撒布作業を済ませたかった
修一は、前夜から用意していた撒布用の器具を乗せたリヤカー
を引いて家の前にある小さな池の土手道をミカン園へと急いだ。
背中に撒布用の薬剤の入ったケースを背負い、撒布のための圧
縮レバーを二、三度上下させたとき母が追いついてきた。
「修ちゃん、おはよう。きょうは雨が降るのんとちがう?」
「何で! 僕がたまに早起きして、野良仕事手伝うたらアカ
ンノンカ?」
ガールフレンドとの約束を破りたくない一心で早起きをした
ということを母に見抜かれたようであった。
「修ちゃん! 修ちゃんも来年は大学に行かんならんし、姉
ちゃんもそろそろ嫁に行くことやろうから、父ちゃんも母
ちゃんも淋しゅうなるやろうなあ・・・」
「母ちゃん、何をそないに取り越し苦労しとるんやの。百姓
の息子でも、これからは大学ぐらい出とらんとアカンいう
たんは母ちゃんやないか!」
「そうやったなあ、父ちゃんも五十にはまだまだ間もあるし、
母ちゃんも若いもんや、いらん心配せんならん歳やあれへ
んわなぁ」
仲の良い母子の会話であった。姉一人で男の兄弟がなかった
せいか、修一は母親っ子であったし、又母も、姉よりは修一の
方を可愛がっていたのである。
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作業を終えた修一はオートバイに跨り駅への道を急いだ。約
束の時間には少し間があった。細い峠の路を通り抜け駅へ通じ
るアスファルト道に出たとき、目の前を一匹の黒い猫が横切っ
た。人一倍縁起をかつぐ修一は、目の前を通りすぎた黒猫の姿
に何かしら不吉なものをみたのだった。
前方を見つめる修一の緊張がほんの一瞬ゆるみ、サイドミラー
に映る後方の景色に目を奪われた次の瞬間、修一の体はドーン
という鈍い音を残してオートバイと共に七メートルばかり跳ね
飛ばされ、路端の冷たいアスファルトの上に背中をまるめ、苦
悶に耐える姿となって横たわっていた。
後方に目を取られた修一のオートバイがセンターラインを越
え、ゆるいカーブの向こうから走って来た小型トラックと正面
からぶつかったのだった。
救急車のサイレンの音が遠くに聞こえ、壊れたオートバイの
車輪が、「ゴリッ!ゴリッ!」と不規則な音を出しながら、虚
しく回っていた。
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