「お願いします」
「どうぞ」
手術の始まりを告げる型通りの会話であった。無影燈の下で
手渡された円月刀が素早く、冷たい手術台に横たわっている修
一の右側頭部の皮膚を丸く弧を描いて切り進んでいった。
鼻をつく甘酸っぱい血の臭いとコッフェルの鈍い金属音、そ
して滲み出る赤い血を拭う消毒ガーゼが皮膚に触れるときの微
かな布ずれの音、意識のないはずの修一に聞こえるのはそれだ
けであった。
周囲を見ようとしても、頭も、手も、そして両脚も固定され
ているのだろうか全く動くことは出来なかった。オペレーター
を始め、麻酔医も、助手も、だれ一人として修一に意識がある
ことに気付いてはいなかった。
メス、コッフェル、ガーゼ、メス、そしてコッフェルという
循環で修一の頭皮が患部に沿って二十センチほど半円形に切り
込まれて行った。頭皮を切られる時の音は全く耳に届かなかっ
た。半円形に切り離された頭皮が持ち上げられた時、ハサミの
刃と刃の触れる音が嫌な感触と共に修一の五感に伝わって来た。
次の瞬間、スルメを焼いているような芳い匂いがオペレーショ
ンルーム一杯に拡がって行き、ガス麻酔のゴムマスクで深く覆
われている修一の鼻腔にも届いて来た。骨膜がはがされ、止血
のためにボビー(電気メス)が使われているらしい。
それにしても不思議な出来事であった。頭部の重篤な外傷で
意識不明のまま病院から病院へとタライ回しにされた挙句、や
っと手術設備の整ったこの病院に運び込まれ、心電図、髄液検
査、脳波、脳血管撮影と各種の検査により全身状態がチェック
され、ストレッチャーでこの手術室に運び込まれても、外見上
はともかく、修一の意識は朝、母親と別れて家を出たときのま
まであった。
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自分の回りを取り巻いている青衣の医師、看護婦のうち、た
だの一人として、修一に意識があることなど考えてもいないよ
うであった。
勿論、肺を通して全身に送り込まれている笑気ガスとフロー
セインに抵抗し得ることなど常識では考えられないことであっ
た。しかし、修一の耳は音を聞き分け、両の瞳は殆ど閉じてい
る瞼を通して、至近距離で動く青衣の一部を識別しているので
ある。
笑気ガスだけによる麻酔の場合、約八割の被術者が手足をバ
タつかせたり怒鳴ったりすることは、外科的手術の際決して珍
らしいことではないのである。それどころか、笑気ガス独得の
甘い匂いをかぎ分け、コッフェルやメスの触れ合う金属音を十
分に聴き取るだけの潜在的な意識は残っているのが通例である。
しかし、修一の意識はそういった潜在的なものでなく、ごく
普通の、というより、一般人、つまり健康な人々が通常持って
いる意識以上に研ぎ澄まされ鋭利になっていたのである。
ただ一つだけ違う所は、痛覚だけがないということであった。
頭皮がはがされ、骨膜がハサミで切り離され、止血のために電
気メスが使用されるのも全て感じ取っていたのである。にもか
かわらず、修一は手を、そして脚を動かすことも、又開いてい
る瞳孔を閉じることも出来なかった。
そして又、十分に麻酔が効いたのを確認したのであろうか、
気管に挿入されていた麻酔管が取り除かれ、自由な口を取り戻
したものの、唇も、舌も、言葉を送り出すための働きを拒否し
たままであった。
寒くて恐ろしかった。“助けてくれ!”そう怒鳴りたかった。
『僕には意識がある! 目も見える!音も聴こえる、 嫌だ!
もう止めてくれ、助けてくれ!』
そう言いたかった。何とかして自分の意志を伝えたかった。
しかし、体のどの部分も修一の命令には従わなかった。
無数のコッフェルが一本の輪ゴムで束ねられ、半円形に切り
裂かれた頭皮がオキシフルガーゼによって包まれた時、突然、
修一の頭の上で人の声がした。
「ボビーをブラインドに!」
手術開始から二十分経って初めて耳にした人の声であった。
次の瞬間、「ゴリッ、ゴリッ」、鈍く、重苦しく、そして嫌な
音が修一の頭の中へ飛び込んできた。
『どこかで聴いたことのある音だな!』
そう修一は思い、その音を何処で聴いたのか思い出そうとし
ていた。そう遠い記憶ではないように思えた。目の前に修一自
身の笑い顔が、家が、母の顔が、風景が、次から次へと浮かん
では、又消えていった。
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