「コロちゃん、長い間私たち家族を楽しませてくれてご苦労
様。楽しい思い出を有り難う・・・」
いつもながら私たち獣医師はペットの臨終によく立ち会うも
のですが、慣れてはいるものの私は眼の周りが熱くなり、こみ
上げてくる涙を止めようと思っても止まらず、急いで入院室へ
飛び込み平静を装うのに必死だった。
コロちゃんは慢性腎不全による尿毒症のために十六歳の寿命
を全うしたのである。
彼女とその家族との出会いは絵に描いたように感動的であっ
た。家族でお彼岸の日の墓参りの帰り、国道を家路についてい
たとき、路上に横たわる犬の死骸に出くわしたのであった。
運転中の奥様は一瞬横たわる犬の目が瞬いたのを見逃さなかっ
た。すぐに車を止めて後続の車を整理しながら犬を救出し、そ
の足で私の病院へとびこんだのであった。
当時の彼女は乳歯の残る、体中ダニの寄生した純粋の野良犬
であった。運の強い子で、全身麻痺で飲水もできない状態だっ
たのが一週間もすれば何とか水も喉を通るようになった。
毎日通ってくる拾い主の暖かい励ましに、彼女だけでなく私
たちも一生懸命治療に邁進できたのである。初診時、私自身も
殆ど回復は不可能と思って拾い主にその旨を伝えていたのだが、
彼女の生命力の強さに初期に伝えた予後をだんだん変更せざる
を得なくなった。
一ヶ月もする頃には食餌も自分で摂れるようになり、努めて
自力で歩こうとリハビリを始めるまでになった。初めの出会い
が出会いだけに、さしもの野良君も自分の境遇が理解できたの
か、私たち病院の人間と拾い主には心を開いたようであった。
その後彼女は順調に回復し拾い主の家族の一員として迎えら
れ、すばらしい一生を過ごしたのであった。
野良として産まれた犬たちのこのように恵まれた例は何パー
セントあるだろうか? 殆どが悲惨な結果で終わるのは間違い
のない事実ではないだろうか。しかし私の周りの人たちも満更
捨てたものでもないようだ。
毎日、日の出前に(日中だと出会った人に冷たい目で見られ
るし、野良たちも住居に帰る時間だから)、リュックに背負っ
た数々のメニューを山の野良たちに届けているおばさんたち。
野良に餌を与えているのを見つかっていつも叱られているの
で、竹輪に焼きめしをぎゅーぎゅー詰めにし、犬を散歩させる
格好でいつものところに竹輪を置いていく美容院の先生!
また、朝晩当番制で神社の捨て犬たちに定期弁当を届けてい
る食堂の奥さんたち。新聞やさんより早く街の中の野良たちに
バイクでモーニングサービスをしているお兄さんたち! 沢山
の暖かい心があるのも事実である。
そういう人たちに他人は「あの人は犬キチガイだから・・・」
という。しかし彼らは
「私は犬や猫は好きではない。見ていられないだけです。
野良犬や野良猫たちに何の罪があるのですか?」
いつもこういう答えが返ってくる。その言葉を聞く度にいつ
もその純粋な心に尊敬の念を抱くのであった。
野良の大半は心ない人間の犠牲者である。有名無実な動物愛
護法ができても全く関係ない。いくら世の中が使い捨ての時代
だといっても、犬たちまでもが使い捨てになってはたまったも
のではない。
人間と犬たちとのつながりは有史以前からであり、彼ら犬た
ちによって人類は文明を得たという説もあるぐらいである。
太古の時代、犬たちは人類のために狩りをする手伝いをし、
外敵から農作物や貯えを守って貰い、夜の安眠も得た。その上
運搬の手助けをするなど、犬たちにより得られた恩恵は多大で
あった。それを忘れて、犬畜生とか野良犬とか、あまりにも日
本人は犬たちを疎みすぎるのではいだろうか?
その点狩猟民族であるゲルマン系の人たちは犬たちをコンパ
ニオンアニマルとして日本人より犬たちに対する接し方が体質
的にか、それとも先天的にか大変上手である。それ故、動物愛
護の精神も、また活動も我々より数段進歩しているように思わ
れる。
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余り良い例えではないが我々獣医師の間でよく話題に上るこ
となのだが・・・、アメリカの動物病院へ見学に行って先ず驚
くのが待合い室で待っている犬たちのおとなしいことである。
うらやましい限りである。
我々の病院を訪ねる患犬たちは、入ってくるなりすぐにあっ
ちこっちにマーキングをしたり、先客と争って吠えあったり、
全く忙しいことである。
飼い犬を見れば飼い主の人間性がよく解るといわれているこ
とでもあるし、我々も気をつけなければとは思うのだが・・・。
今年は皇太子様と雅子様の御成婚で「ショコラ」が大人気と
なり、ヨークシャーテリアが引っ張りだこであるといわれてい
る。まぁそれもファッションということで悪くはないだろうが、
犬を飼いたいと思う人はなぜ見栄ばかり張らず、雑種犬を飼う
人が少ないのか。
我々から見ても雑種犬の方が純粋種より適応性が強く、病気
にも抵抗性があり頭脳もよいのではないかと思う。何十万も出
して血統書付きの犬を、上品でいかにも上流社会の奥様と見ら
れるご婦人がさも愛犬家風に飼っていたのが、一年も経つと毛
はもつれて座布団のようになり、蚤だらけになる。そのうちに
面倒を見きれなくなってポイと保健所へ捨ててしまう。
全く殴ってやろうかと思うほど腹立たしいことがよくある。
そうかと思えば、みすぼらしい独居のおばあさんが、誰も拾わ
ないような野良犬に自分の食事を半分にしてでも餌を与えて宝
物のように愛している。
ペットとして飼われる動物は、その一生を飼い主によって左
右される。全く哀れな生物である。幸せになるか、不幸になる
か、しかし例え不幸になろうともその動物たちは飼い主に対し
尻尾を振って服従を示したり、媚びを売る。それがまた胸を打
つのである。
私たちの仲間(獣医師)、はいろいろな考えや思いでこの仕
事を選択したと思うが、私の場合は「傷ついた動物、病気の動
物を少しでもよくしてやろう」こういう犬好き猫好きの誰でも
が思う安易といえば安易な気持ちで獣医科大学へ入学したので
あった。
大学へ入学して、当時はすぐに解剖実習がありました。保健
所から実習犬として与えられた犬たちを、安楽死と称して電殺
する事が初めて私に与えられた辛い試練でした。
あまりにも大きな理想と現実の落差に愕然として悩みに悩ん
だことがついこの間の事のように思い出されます。何だかんだ
と理由をつけては電殺係りを逃げ回ったものでした。
押さえつけられて、肛門と口に電極を押し込められ電源のス
イッチを・・・・・。
彼らの最後の顔を見る度に「お前のことは一生忘れないから
・・・許してくれ」心の中でいつも手を合わせていた弱虫であっ
た。
ある時保健所から搬入された犬が車から降ろすとき、うまく
脱出した。「早く逃げろ! 早く!」無言の拍手喝采を送った
ものだった。
しかし我々獣医師の仕事は実習なくして技術的な進歩はない
ことも事実である。故に私は薮獣医たる所以である。
実習犬としていつも入院ゲージに二〜三頭の犬は置いてあり
ました。しかし彼らに人間の勝手で「お前はほかの仲間のため
にまた人間のために犠牲になれ!!」とは言えないのである。
苦痛や恐怖を与えることはできません。だから実習は死体で
しか行えないのです。いつも自分の弱さに後悔し「アーア、も
う少し割り切れたらなぁ」この仕事を選んだ自分を反省する毎
日である。
私は犬や猫について話したり書いたりすると、いつも暗い気
持ちになってやりきれない思いがするのは何でだろうか?
愛すべき・・ いとおしい・・、
あんなにかわいい生き物なのに・・・・・
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