五色台は不思議な場所である。自然が豊富な場所でありなが
ら、何者かの手によって造られたような気持ちにさせる。季節
毎に花が咲き誇り、誰もが色を記憶に残す。またそこは岬であ
り、海から自分の住む街に向かって波動のようなものを送り込
んでいるような気持ちにさせる。そして交通の便もそこそこに
良く、ノラを生み出す環境と、給餌しやすい環境とがある。ど
れ一つ欠けても私のノラに対する想いは生まれなかったであろ
う種々の要素が、私の人生の転換期に二階堂さんを通じてそこ
に現れた。
私は何者かに呼ばれるように五色台を訪れ、そこで風の声を
聞いた。まさに神の啓示のような突然の思いである。私は瞬間
にノラを理解し、瞬間に自分の進むべき道を見いだした。
それまでの私は、ノラに対し二階堂さんが給餌活動という行
為を、ノラのために行っていると考えていた。一種のボランテ
ィアのようなものだと思っていたのである。しかし現実は大き
く違っていた。命が命を呼んでいたのだった。
五色台の子供たちの透き通った眼、嘘のない彼らの感情表現。
愛憎悲喜こもごもを四季の風景とともに、二階堂さんは彼らと
一緒に経験していただけなのである。
自分と全く同じ重さを持つ命がそこにはあり、給餌をするこ
とで自分もノラになれるのだ。彼らは鏡のように二階堂氏の優
しさを映し出す。もっと大きな優しさを欲するなら、もっと大
きな優しさで自分が接すれば良い。
私は五色台で同じ命を持つノラ犬という仲間と知り合い、二
階堂さんに教えられるままに給餌を行った。束の間の安息。そ
して彼らの運命に思いが及んだ時、仲間と同じ道を歩みたいと
感じた。彼らの幸せが自分の幸せであるように、また自分の幸
せをも彼らと分かちあいたい。彼らに不幸が訪れるならばせめ
て取り除く努力をしたいと。
以下は私が五色台を始めて訪れた時にしたためた文章である。
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五月一日、子猫を引き取るためと、五色台訪問のために四国
へと向かう。神戸中突堤より、九時五十分の関西汽船に乗船。
雨男の私に相応しく、雨を予想させるような曇天ではあるが、
流石にゴールデンウィーク、乗客は多い。二階堂さんへのお土
産のパソコン雑誌などで時間を潰すこと四時間半、予定より遅
れること半時間、二千三百九十円という格安の船旅は目的地高
松に着く。
桟橋を歩き港から外に出ると、一年ぶりの顔がそこにあった。
握手を交わしただけで、挨拶もそこそこに先ず五色台へ行こう
とのこと。二階堂さんの美声による案内を受けながら、市街地
を走る。想像していたよりも都会であった。
方向音痴の私には、どこをどのように走ったのか定かではな
いが、市街地がいきなり懐かしさを覚えるような田舎の風景に
変わる。
右手に海を見ながら、細く曲がりくねった道を車は走る。我
が町にある六甲と、我が故郷唐津をミックスしたような美しい
景色だ。有料道路のゲートを過ぎて、少し車を走らせたところ
が第一の目的地。自然科学館の隣にある駐車場だ。既に野生児
たちは出迎えにきてくれていた。
車を降りてトランクを開ける。この車に乗り込んだ時にただ
の荷物だと思っていたもの、それが野生児たちの食料であった。
とにかく食料だと気がつく程の量ではない。図体のでかいベン
ツのトランクの殆どが食料なのである。加えて治療用の七つ道
具や食器類が所狭しと置かれてある。名車ベンツも形無しだ。
二階堂さんは慣れた手つきで食器を用意し、それぞれに食料
を入れる。船中で不味い食事をした私よりも幸運なわんちゃん
たちではある。氏の愛妻の手作りのご馳走を、体一杯で美味し
さを表現しながら食べている犬たち。あれが太郎、あれがさく
ら。権兵衛は警戒心と、太郎に対する気兼ねからか、一番最後
に食べ始めた。さくらは食事を終え、二階堂さんに近づこうと
するが、私が視野に入ると逃げる。このような注意深さが、彼
らにとっては命を守ることに繋がるのであろう。嬉しいような
哀しいような気持ちだ。
食事を終えたノラたちは、食後の運動に出かける。その間に
も二階堂氏は体を休めることができない。そこから歩いて五分
くらいの道のりのところにある水道まで、彼らに飲ます水を汲
みに行かねばならないのだ。曇天のせいかやや肌寒く、風も強
いので、氏にはこたえる作業に違いない。
これを真冬にもやっていたのだと思うと胸が詰まる。以前は
要領も悪く、餌を作ることから現場でしていたとのことで、そ
れに加えて現在より三倍ほどの食料が必要だったそうである。
私は完全に言葉をなくしてしまった。ここにくるまで、頭で
はいろいろと想像していたが、想像はあくまで想像でしかなかっ
た。電話でも何回も話を聞いていたのに・・・・・。
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二階堂氏が決して凄いことをしているというのではない。真
冬に凍える手をすり合わせながら、思うように動いてくれない
心臓を叱咤激励し、氏が給餌活動を続けてきたことは、確かに
人にできないことかも知れないが、これとて些細なことであっ
た。あの権兵衛やさくら、そして太郎。彼らが二階堂氏を動か
している。それほど素晴らしい、そして心を暖めてくれる犬た
ちなのだ。
この現実の前に直面した時、それぞれができることをすると
いうことの大事さを知る。そしてそれが、どれほど自分に幸せ
をもたらせてくれることか。今、二階堂氏は至上の幸福感に満
たされている。
空になった食器をタオルで拭い、今度はパンと缶詰を混ぜた
食事で器を満たし、カラスに取られてしまわぬようにと祈りな
がら、次ぎなる目的地に向う。駐車場より500メートルほど
山を下ったところ。
ここにはコロを筆頭に、二階堂氏が勝手に名前を付けた、或
は名無しなどと名前があるようなないような、総勢七頭のわん
ちゃんたちがいた。全員が尻尾を振りながら走り寄ってきた。
コロなどは氏の顔を見たとたん、尻尾を振りながら仰向けに
なり喜びを表現している。
「ガードレールと向こうの島を結んだ線のところに、ここで
交通事故で亡くなった犬を埋めました」
そのような話を聞きながら、ここでも給餌をする。
坂の上からふと下を見ると、そこは一面からすのえんどうが
生えていた。紫色の可憐な花が、絨毯を敷き詰めたように咲い
ている。何故か隣にいる日焼けした顔の二階堂さんとだぶって
見えた。
雑草とは言え、生を受けたからには、精一杯花を咲かせてや
ろう、そんな言葉が聞こえてきそうだ。
そして謙虚で圧倒的で・・・・・。
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ノラと共に生きるということは、考えてみればノラと哀しみ
を共有することだと思う。確かに喜びも大きいのだが、いつ終
わるとも知れぬ哀しみを背負い込むことだ。十頭のノラを救う
ことができても、次の十一頭目が必ず存在する。
以前友人からこんな話を聞いたことがある。牡羊座にまつわ
る哀しい話だ。
川で遊んでいた二人の子供が溺れた。それを見ていた牡羊は
迷わず川に飛び込んだ。できることなら二人とも助けたいが、
自分にできることと言えば口にくわえて助けることだけ。
そこで牡羊は近くにいた子供一人を口にくわえ、川の外へ引
きずり出した。もう一人の子供を救おうと川を見たが、既に姿
はなかった。
牡羊には子供を救った満足感などはない。ただもう一人の子
供を救えなかった哀しみだけが残った。振り返って見ても無駄
であることを知りながら、それでもそこから立ち去ることがで
きずに、何度も何度も振り返って川を見た。
それが天に昇って牡羊座となったという話である。
喜びはいつの日にか消え去るが、哀しみはいつ果てるとも分
からない。心の中の引き出しにしまい込むしかないのだ。しか
しその向こうには新たな哀しみが待っている。深い深い哀しみ
が。だが人は流した涙の数だけ優しくなれるものらしい。そし
て優しさは仲間を、次の一頭をどうにかしようという原動力に
なる。
私は五色台で、この優しさの連環を見た。そこには気負いも
なく欲もなく、ただ眼前に広がる雄大な海と、豊かな自然を持
つ山と、優しい目をしたノラたちがいて、このノラたちに引き
ずられるようにして給餌活動を続けるノラと同じ目をした二階
堂という男がいた。
精一杯に生きていることの証として、可憐な紫色の花を咲か
せていたからすのえんどうが、何故か無骨な男の面影と重なる。
五色台から吹く涼風が、今なお私に語りかける。
人生をあるがままに受け入れ、一生懸命正直に生きなさい。
お前もノラなんだからと。
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