「哀・犬・歌」に寄せて



三林二三夫
 高校生のころである。私は野良犬や野良猫には餌を与えるこ
とも手を出すこともしてはならないと考えるようになっていた。
それは、どんなことにも責任を持った行動をとらなければなら
ないという私の生き方の理想によるものであったし、野良たち
の命と将来を請け負うことができないにもかかわらず、一時的
な哀れみから餌などを与えることによって彼らになんらかの期
待を持たせることこそ、むしろ罪悪ではないかと考えていたの
である。

 数年前に息子が近くの公園で子犬を拾ってきた。私はけっし
て犬や猫が嫌いなわけではなかったし、子供の頃にはどちらも
飼っていたこともある。できることなら犬の一匹も飼いたいと
考えていたこともあって、その子犬はエムと名付けられて、わ
が家で飼われることになった。

 そのとき私は「飼っても良いか」と申し出る子供たち三人に
「お前たちの責任で最期まで面倒をみること」を条件にして承
諾したのだった。そのとき公園に捨てられていた子犬は三匹で
ある。家で飼うのは息子が連れてきた一匹だけ。残りの二匹に
は、やはり私は目を向けることはなかった。


 一年ほど前に、金沢の動物園が赤字のために閉鎖されること
になったという話が伝わった。それは、飼育されている動物た
ちが殺処分されるかもしれないというショッキングな報道だっ
た。


 「動物が可愛そうや」娘の涙に、なにか少しでも動物たちの
ためにできることがないかと始めたのが、助命嘆願署名への協
力と動物たちへの食料差し入れである。パソコン通信を通して
署名を呼びかけ、動物好きな人たちが集まっているであろうペッ
トのフォーラムへと入っていった。
 そこで私は二階堂氏の提唱する「一切のパン」という言葉に
出会うことになる。それは目の前の野良犬、野良猫に、たとえ
一切足らずのパンであっても食べ物を与えることで彼らの命を
救おうという行動である。

 この小さな言葉が、二十年間確信してきた私の考えに大きな
ヒビを入れてしまったのだった。動物園へわずかずつの野菜や
果物を持ち寄ったところで、とうてい十何億という赤字経営が
好転するものではない。

 しかしそれは、動物たちの命を救ってほしいという心を届け
ることなのである。私たちの行動をとおして、たくさんの人た
ちが動物たちにやさしさを与えてくれることを願い、それこそ
が動物たちを守ることにつながるのだと信じていた。

 幸いにして、その期待は裏切られることはなかった。私たち
の行動に共鳴してくれた多くの人たちが同様に動物園に食料を
届けてくれ、ついには行政も動物たちの救済に動き出すことに
なったのである。

 まさに「一切のパン」だった。

 一切のパンは、それが直接野良たちの命を救うものではない。
パンにこめられた野良たちを救おうとする心が、人々のやさし
さを運び、野良と人、みんなが幸せに暮らせる世界を創りあげ
るものなのだ。

 すでにヒビのはいった私の信念を、さらに完璧に打ち崩した
のが「五色台の野生児たち」だった。彼らに教えられたことを、
私はまだ言葉にすることはできない。ただ、私自身も彼らから
『命』と『心』と『やさしさ』を受けとり、彼らとともに歩ん
でいくことだけは間違いがないだろう・・・

 私もまた、野良なのである