狼の研究者 平岩米吉

動物文学会主宰・平岩由伎子

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 昭和八年に初めて父が造り出した「動物文学」という言葉は、
今でこそ文学の一つのジャンルを指す当たり前の言葉として使
われていますが、その頃は変な言葉と思われていました。動物
文学は父が目指したレベルではないかもしれませんがとにかく、
日本にも定着していきました。そして犬科生態研究所と動物文
学会は少し遅れて昭和十二年に正式にスタートしました。

 自由が丘の広い庭にさまざまな野生動物を放し飼いにしたの
は、一つの種だけを見ていたのでは、その種をほんとうに理解
するのに充分ではない。集団生活をするものは集団で、それも
出来る限り自然に近い状態で世代を通じてみなければ、ほんと
うの姿は判らないというのが父の考えでした。

 昭和の初めといえばそれはいまから六十年以上も昔のことで
す。

 今でこそライオンもハイエナもリカオンも人類の保護の下に
辛うじて生存し、いくらでも現地へ入って彼らの生活を目の当
たりにすることが出来ますが、その頃は、アフリカや南米など
には、まだまだ未開のジャングルが拡がり、1840年のあの
リビングストンの苦難をきわめたアフリカ探検の頃とあまり変
わっていない状態だったと思います。

 とにかく、現地で野生動物を観察するなどということは不可
能に近い時代でした。

 ですから、野生動物の研究といえば、たいていは施設の中に
少数の動物を飼って問題を設定して調べるというやり方が主流
でした。そうした時代を考えると父の着眼はまさに画期的なこ
とだったと私は思っています。


 大正の終わりに、若くて父のもとに嫁いで来た母は、およそ
動物とは縁のない化粧品問屋の娘でした。

 初めは猫もこわくてさわることが出来なかった母でしたが、
動物たちに囲まれた自由が丘の生活の中で、母は何時しか父の
助手として動物たちの世話をし、録音や映画で記録をとり、ハ
イエナや狼を抱いたりするようになっていきました。そして、
弱い子供たちの面倒を見ながら、夜は原稿の清書、雑誌の校正
の読み合わせという日常でした。

 私たちは、夜になると父母の読み合わせの声をききながら眠
りにつきました。

 そうして、フェリックス・ザルテンの「仔鹿物語」シートン
の「狼王ロボー」「きざ耳坊主」など外国の優れた動物文学が
次々に紹介されていったのです。
 私たち兄弟のうち、下の方の子供たちは、ジャッカルの叫び 
声や狼の遠吠えの中で生まれてきました。私たちは動物たちと
一緒くたの生活を当たり前のことと思っていたのですが、他人
から見るととんでもない生活だったようです。

 昭和十二年頃のことでした。ハイエナと私たちが庭で遊んで
いた時のことです。

 私たちが少ししつこく彼をかまったので、初めはよろこんで
遊んでいたおとなしいハイエナも、だんだん興奮して、たてが
みをなびかせて私たちに逆襲してきました。

 私たちはそうした時、近くのそなれ(這白槙)の天辺にとび
乗って難を逃れることになっていました。ハイエナはそなれの
葉がチクチクするのがいやで枝の広がりの中には絶対に入って
こなかったからです。

 私たちに安全地帯に逃げられてしまうと、ハイエナはしばら
く樹のまわりをハナ息荒くまわっていますが、じきに怒りを忘
れて向こうへ行ってしまいます。それを見ると私たちは早速そ
なれを降りてきて、また遊び続けるのです。

 その日は丁度、父のところに女のお客があって、父が二階の
客間に上がっていくと、私たちの一部始終を見ていたお客さま
は、怖ろしさに真っ青になって腰を抜かしてしまっていたそう
です。私たちは大人が腰を抜かしたなどということの方が、よ
っぽどショッキングで、その方には申し訳ないのですが面白い
ことでした。


 私は十歳位になると、早くも犬たちのお産の手伝いや、子狼
や狸の世話をするようになり、戦後、結核で療養していた数年
間以外はずっと父の傍らにあって狼の頭骨の計測や鑑定の助手
をしたり調査取材のお伴を仰せつかっていました。

 父の調査は狼が多く、昭和二十七年には、犬と狼の頭骨の鑑
別に頭骨がそろっていれば、未成獣以外なら、バランスによっ
て、ほぼ百%確実に区別できることを発表していますし、昭和
五十三年には下顎第一臼歯によってそれまでより精度の高い判
別点を発見しています。

 さて、父はなかなか、せっかちな人でしたから、「さあ、今
日は出かけるよ」と言われたら、私は五分以内にカメラや計測
器をひっ抱えてとび出していきました。そして現場へ着けばた
ちまち父のトレードマークになっていたインバネス、ステッキ、
帽子持ちになります。でも、それはいつもほんとうに楽しいこ
とでした。

 戦後、上野の芸大に写真を撮りにいった時などは、キャスター
つきの椅子に乗って、カメラを構えたまま椅子から落っこちそ
うになり、隣の部屋で国宝の撮影をしておられた技官の方が、
びっくりしてとんでこられ、押さえて下さったこともありまし
た。

 またある時は日本狼としては最大の頭骨の計測のお伴をした
り、榎本武揚の山猫の板絵の撮影にも行きました。