父、平岩米吉は狼を馴らす名人でした。名人というには語弊
があるかもしれません。なぜなら、父は全く巧まずして一瞬の
うちに狼と心を通わせ、深い信頼と愛情の絆で結ばれてしまう
人だったからです。
狼に投げたボールを犬のようにとってこさせ、食べている最
中の食器を取り上げるようなことも平気でやっていました。
これは犬であれば当たり前のことなのですが、狼の場合、一
度くわえたものは彼の所有物であり、そこへ手を出せば攻撃の
対象になるという狼の習性を熟知しているものからみると正に
驚くべき事なのです。
父が狼に投げたボールを持ってこさせたり、手拭いをグルグ
ル振りまわして跳びつかせ、遊ばせている姿は、そのまま母の
まわす16ミリカメラで撮影され、六十年後の今日まで残され
ています。その映像は最近、あるテレビ局から放映されました。
「オオカミと生きる」のヴェルナー・フロイントなどは、狼
は人間に対する警戒心を遺伝的に持っているから、ほんとうに
馴らすには、それが強化されない幼いうちに親と離さなければ
いけないと繰り返し述べています。ヨーロッパの狼は家畜を襲
ったために徹底的に迫害され、特に用心深い性質を獲得してい
ったということは十分考えられます。
しかし、父にとっては何処の狼だろうと、また、子狼だろう
と成長した大人の狼だろうと、まるで関係がありませんでした。
彼らはみな、殆ど初対面で父を信頼し驚くばかりの服従と愛情
を示すのでした。
昭和九年、当時の満州国皇帝から秩父宮家に贈られ、後に上
野動物園に下賜された、シベリア系の雌狼は、特によく馴れ、
たまに訪れる父の姿を遠くから見つけると狂喜して待ちわび、
喜びのあまり尿をもらしてしまうありさまでした。
そして父が帰ろうとすると、檻に手をかけて立ち上がり、父
の後姿をいつまでも見つめていて、遂に父の姿が物陰にかくれ
て見えなくなると遠吠えをして父を呼んだものでした。
これなどは父が生まれつき持っていた特殊な能力の一つです
が、その他にも父は娘の私から見ても、実に多方面の才能に恵
まれた探究心の塊のような人でした。
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明治三十年十二月四日、江戸時代からつづいた大きな竹問屋、
上総屋の六男として生まれた父は、幼い時から大変な動物好き
で、祖母に代わって父を大切に守り育ててくれた乳母、広瀬み
さの語る「椿説弓脹月」の山雄野風という狼の活躍する話に夢
中になり、生家のあった亀戸の田圃に狐が出るときけば、乳母
にねだってねんねこで負ぶわれ、提灯を持って毎夜のように狐
探しにいったということです。
また、四歳位の時に乳母が教えた五目並べは瞬く間に上達し
て、大人でもかなうものがいなくなるありさまでした。
そして十歳位の時には亀戸の店に荷が入ると、父はそれを一
人で間違いなく仕切り、堅川の神童と呼ばれていました。
三千坪もあった広い庭に竹竿をたてて高さを測り、池の中ま
で等高線を記入した刻明な地図を作ったり、明治四十三年のハ
レー彗星の大接近時に時間による角度や尾の長さなどを記入し
た精密な写生図を作ったのもその頃のことです。
幼い日、乳母から教わった五目並べは後年、本格的な連珠と
して才能を伸ばし、大正五年には十九歳で初段、昭和二年には
七段となりました。そしてその間に多くの定石の研究をまとめ
ています。
この十代から二十代にかけては父が連珠と短歌や山に熱中し
ていた時代でありました。しかし将棋が好きで七段までいった
祖父甚助と同じ七段になると、それまで熱中していた連珠の実
戦をはなれ、連珠よりもっと心をつき動かされるようになって
いた、動物の生態の研究のために母とまだ幼い私たちをつれて、
昭和四年生涯の研究の場となった、府下荏原郡碑衾(現在の自
由が丘)の地に移住したのでした。
当時の自由が丘は竹藪と水田に囲まれた、文字通りの田園地
帯でした。
そこで父は、昭和五年から九年にかけて、「母性」「子供の
詩研究」「科学と芸術」などの雑誌を次々に発行し、その一方
では、畑の中の千坪ほどの区画を囲って犬たちはもとより、狼、
ジャッカル、ハイエナなどの多くの野生動物を放し飼いにして、
その生態を観察し研究するという生活に入っていきました。そ
して昭和九年にはわが国の風土病ともいうべきフィラリアから
犬たちを救うためフィラリア研究会を作り同年六月には、日本
にも優れた動物文学が誕生することを願って雑誌「動物文学」
を創刊しました。
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