しろちゃん



1月23日
 昭和五十七年十月、夕方から降り始めた霧雨がいっこうに止 
む気配を見せず秋の入り口の一日の終わりを陰鬱なもので飾っ
ていた午後七時過ぎ、夕食をとっていた耳になんとも異様な急
ブレーキの音が飛び込んできた。

 「事故だ!」、疑いもなくそう思ったまま、玄関から道路に
飛び出した目の中に、その日の昼過ぎ、裏の児童公園で小学生
の女の子に抱かれていた生後二カ月ぐらいの真っ白い子犬が、
血の海の中で道路に横たわっている姿が飛び込んできた。

 考える余裕はなかった。子犬を抱え家の中に、座布団をベッ
ド代わりに子犬を横たえ、聴診器を胸に、殆ど心音が聞き取れ
ない。呼吸も確認することができない。口からも鼻からもそし
て耳からも血が流れ出ている。とにかく気道を確保することが
先決!

 細身のピンセットで鼻孔にこびりついている血餅を取り除き
自発呼吸が戻ったときのための気道を確保、五気圧で酸素を流
しながら聴診器を当てて人工呼吸と心臓マッサージ、五分、十
分、微かに心音が聞こえたような気がする。

 三十分後、掛かりつけの獣医の先生が駆けつけてくれる。微
かではあるものの、心音も聞こえ始め、自発呼吸も戻っていた。
しかし先生にも為す術はなかった。顎の骨は砕け、胸骨も複数
折れているようであり、勿論頭部を強打していることは、出血
の状態からでも容易に想像できた。腹腔内出血、内臓破裂等も
当然予測された。


 時間の問題であった。なすこともない先生をせき立てて、家
中でいちばん元気なビーグル犬のちびちゃんから二十tの血液
を抜き輸血。「こんな小さな子の血管を確保したことはない」
と後込みを続ける先生を励ましながら右前足の血管に留置針を
刺し血管を確保、強心剤の注入後、止血剤等の混合輸液を点滴。
 閉まっていたペットショップを開けて貰い、超大型のプラス
テイック製の水槽を購入、水槽に布団を敷き、サイドの上下に
穴を開け、下の穴からは酸素、上の穴からはコンプレッサーで
抗生物質の超微粒子噴霧、簡易高圧酸素治療室での闘病の始ま
りであった。

 三十分と目を離すことはできない状態が一週間は続いた。大
量の点滴による肺水腫を防ぐため、身体の両側に砂袋を置き犬
座位を保ちながら酸素の調節、心音の確認、呼吸状態、病室内
の温度管理・・・仮眠もとれない状態が続く。朝夕に往診をし
てくれる先生も、強心剤と栄養剤の調合くらいしかできること
はなかった。

 二週間目、濁っていた尿がきれいに澄んできた。と同じくし
てごそごそと病室内で動き始めたのである。事故から二十日、
膝の上で卵の黄身を食べ始める。よろけながら少し歩行もし始
める。一ヶ月が過ぎた頃、自力で食事をすることができるよう
になり、ほっと一息 でも何かおかしかった。

 ペンライトで対光反射試験をしてみる。瞳孔が半開きのまま
であった。収縮も拡散もしない。頭部強打に起因する視神経の
萎縮か断裂なのであろうか。喜びが一瞬にして悲しみ変わった。

 友人の脳神経外科医に頼み込んで、ソビエト科学アカデミー
から脳神経障害治療の最新薬を入手。一日二アンプルずつ静脈
注射、祈るような日々の連続であつた。一週間、二週間、何の
反応もない日が続いた。

 一ヶ月があっという間に過ぎていた。もうこの注射液がなく
なったら、治してやることができる薬品も方法もない。でも目
は見えなくても生きていてくれたら、それだけでもいい、そう
言い聞かせて打ち続けた一週間後、ペンライトの光をかわいい
小さな目が追いかけてくれた。
晩年の「しろ」
 もう十一年目の冬を迎えた。輸血のための血をくれたちびち
ゃんも、後から仲間入りした奈々ちゃんも、先輩の蔡ちゃんも、
長女のももちゃんも七人の家族が天国へ逝ってしまった。最初
の一年で三度も心停止をおこしながらも、その都度心臓マッサー
ジと点滴で息を吹き返してきた雑種の小型犬しろちゃん。

 脳神経障害のためか事故の恐怖の後遺症か、未だに抱き上げ
ることはおろか、身体に触ることも危険な状態ではあるものの、
名前を呼べば振り返るようになり、気が向けば、自分の部屋か
ら私の部屋へ顔を出してくれる。庭に出ることもなく、外の世
界へは決して出ようとはしない。それでも、二階堂家のかわい
い家族の一人である。