昭和五十七年十月、夕方から降り始めた霧雨がいっこうに止
む気配を見せず秋の入り口の一日の終わりを陰鬱なもので飾っ
ていた午後七時過ぎ、夕食をとっていた耳になんとも異様な急
ブレーキの音が飛び込んできた。
「事故だ!」、疑いもなくそう思ったまま、玄関から道路に
飛び出した目の中に、その日の昼過ぎ、裏の児童公園で小学生
の女の子に抱かれていた生後二カ月ぐらいの真っ白い子犬が、
血の海の中で道路に横たわっている姿が飛び込んできた。
考える余裕はなかった。子犬を抱え家の中に、座布団をベッ
ド代わりに子犬を横たえ、聴診器を胸に、殆ど心音が聞き取れ
ない。呼吸も確認することができない。口からも鼻からもそし
て耳からも血が流れ出ている。とにかく気道を確保することが
先決!
細身のピンセットで鼻孔にこびりついている血餅を取り除き
自発呼吸が戻ったときのための気道を確保、五気圧で酸素を流
しながら聴診器を当てて人工呼吸と心臓マッサージ、五分、十
分、微かに心音が聞こえたような気がする。
三十分後、掛かりつけの獣医の先生が駆けつけてくれる。微
かではあるものの、心音も聞こえ始め、自発呼吸も戻っていた。
しかし先生にも為す術はなかった。顎の骨は砕け、胸骨も複数
折れているようであり、勿論頭部を強打していることは、出血
の状態からでも容易に想像できた。腹腔内出血、内臓破裂等も
当然予測された。
時間の問題であった。なすこともない先生をせき立てて、家
中でいちばん元気なビーグル犬のちびちゃんから二十tの血液
を抜き輸血。「こんな小さな子の血管を確保したことはない」
と後込みを続ける先生を励ましながら右前足の血管に留置針を
刺し血管を確保、強心剤の注入後、止血剤等の混合輸液を点滴。
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閉まっていたペットショップを開けて貰い、超大型のプラス
テイック製の水槽を購入、水槽に布団を敷き、サイドの上下に
穴を開け、下の穴からは酸素、上の穴からはコンプレッサーで
抗生物質の超微粒子噴霧、簡易高圧酸素治療室での闘病の始ま
りであった。
三十分と目を離すことはできない状態が一週間は続いた。大
量の点滴による肺水腫を防ぐため、身体の両側に砂袋を置き犬
座位を保ちながら酸素の調節、心音の確認、呼吸状態、病室内
の温度管理・・・仮眠もとれない状態が続く。朝夕に往診をし
てくれる先生も、強心剤と栄養剤の調合くらいしかできること
はなかった。
二週間目、濁っていた尿がきれいに澄んできた。と同じくし
てごそごそと病室内で動き始めたのである。事故から二十日、
膝の上で卵の黄身を食べ始める。よろけながら少し歩行もし始
める。一ヶ月が過ぎた頃、自力で食事をすることができるよう
になり、ほっと一息 でも何かおかしかった。
ペンライトで対光反射試験をしてみる。瞳孔が半開きのまま
であった。収縮も拡散もしない。頭部強打に起因する視神経の
萎縮か断裂なのであろうか。喜びが一瞬にして悲しみ変わった。
友人の脳神経外科医に頼み込んで、ソビエト科学アカデミー
から脳神経障害治療の最新薬を入手。一日二アンプルずつ静脈
注射、祈るような日々の連続であつた。一週間、二週間、何の
反応もない日が続いた。
一ヶ月があっという間に過ぎていた。もうこの注射液がなく
なったら、治してやることができる薬品も方法もない。でも目
は見えなくても生きていてくれたら、それだけでもいい、そう
言い聞かせて打ち続けた一週間後、ペンライトの光をかわいい
小さな目が追いかけてくれた。
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