この世のものとも思えないような異様な叫び声が階下から飛
び込んできた。はっきりとしない頭のままで寝室から階下にと
びおりる。
「どうした?」
「玲ちゃんに押さえつけられていたの…丁度生理中で…」
妻の説明を聞きながら書斎で寝ているはずの「ももちゃん」
を捜す。戸口の隅でうずくまっている「ももちゃん」が小刻み
に震えていた。午前八時であった。
いつもなら「蘭」と「ベンジャミン」の朝の散歩が終わり、
「玲」と「もも」の散歩の時間であった。日曜日ということで、
散歩の時間が少しだけ遅くなった。予想もしなかったことが目
の前で起こった。
大きな瞳を見開いて私の方を見つめている「もも」の様子が
いつもとは違う。
朝、目を覚ますと一番に私の所に跳んできて「お早う」の挨
拶をする「もも」が、今朝はうずくまったままである。庭の
「大五郎」たちの所へ出て行きたいのだろうと思い戸を開ける。
前脚二本を懸命に突っ張ってにじり歩きで庭に出るもも!
後肢がブランブランであった。
「どうしてた?」
「いつもなら威嚇して側に寄せ付けない玲ちゃんが、生理中
だからだと思うけど、ももちゃんにすり寄っていって組み
伏せようとしたみたい」
「もも」を抱き上げて書斎に戻ってきた妻に尋ねてみても一
向に要領を得ない。
聴診器とペンライトで取りあえず状態を診察してみる。瞳孔
の状態も、心音も、口腔粘膜も、鼻粘膜も、正常そのものであ
る。両後肢に骨折などの徴候も認められない! しかし後肢は
力無く垂れ下がったままである。外傷性のショック症状も出て
いない。
背中をゆっくりと抑えながら反応を観察する。痛みを訴える
こともない。後肢の先端をピンセットで突いてみる。反応がな
かった!
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脚の先端を口でくわえて指の根本を思いきり咬んでみた。
いつもなら脚を持って口に近づけるだけで、甘えた半恐怖の声
を上げる「もも」が、何の反応も示さない!
「まさか……そんなに簡単に脊椎がやられるなんて……」否
定したくても出来ない現実を目の前に、声にならない声で呟き
ながらライティングテーブルの椅子に腰掛け動物病院の先生に
電話をする。日曜日でも通じる非公開の電話番号を押しながら、
頭の中が真っ白になって行くのがはっきりとわかる。
電話口に出た先生に受傷の概略を説明。緊張した先生の声が
「直ぐに来院するように」と早口で伝える。
診察台の上で前脚を突っ張って痛みに耐えている「もも」を
触診しながら先生が首を傾げる。はっきりとした脊椎の損傷は
見当たらない。先生と二人で「もも」を担いでレントゲン室へ。
ブラウン管に映し出された胸骨にも、脊椎にも、これという
症状は見当たらない。脊椎神経も何の異常も示していないほど
綺麗に写っている。
「どうなんでしょうか?」
「ウーン、外傷性の脊椎損傷……?」
「治癒率は?」
「殆ど絶望的かも、低い…………」
痛みが増してきたのであろう、速い呼吸で喘いでいる「もも」
を抱え病院を後にする。
受傷から二日目の月曜日、診察と注射そして金属カテーテル
を使っての導尿をすませた「もも」が大人しく書斎の片隅のベッ
ドで犬座位のまま、甘えた目つきでライティングテーブルの私
を見ている。
「尿管カテーテルの挿入方法を練習して、ちょっとでも苦痛
を取り除いてやらなければ……」最悪の事態を想定しながら臨
床学の本をひもとく。
目線が合ったのをきっかけに「もも」の後肢の指を思いきり
つねってみる。苦痛を訴えるかわりに、脚を引こうとする。も
う一度つねる。はっきりとわかる力で脚を引こうとした。ほん
の少し、本当に少しだけ、光が射し込んできたのだろうか……
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