海岸公園にて



7月8日

「笑 顔」
 七月八日午前八時二十分 心臓発作の急激な痛みで目覚める。
いつもは朝の散歩から帰ってきた蘭ちゃんの熱烈なモーニング
キスで目覚めるのだが、今日は一番嫌な形の朝を迎える。痛み
の残っている左胸を抑えながら階下に降り、ニトログリセリン
の貼付薬を胸に張る。何も解らない蘭ちゃんが膝に乗ろうとし
てしきりに前肢で合図をするが、かまってやれない。

 午後になってふらふらしていた状態を脱却、やっと正常な状
態近くまで回復。庭で大五郎やちび、はちたちがしきりに遊び
の催促をする、しかし五頭のお相手はまだ不可能であった。窓
越しに声をかけ、目と目で言葉を交わす。

 夕方近くになって、くずついたお天気も回復、何とか散歩に
出られそうであった。気温もかなり低く、長毛のベンジャミン
にはもってこいの散歩日和である。自転車の前かごに水筒を入
れ、いつもの海岸公園へ向かう。
 蘭ちゃんを庇いながらベンジャミンが目を垂らして自転車を
牽く。時折私の顔を覗きこんでペースが合っているかどうか確
認しながら海岸公園迄の二キロを完走。リードから離された二
頭がじゃれあいながら潮の香りの漂う公園を走る。

 ベンチに腰掛け、風のない海を眺めながらベンジャミンの後
ろ姿を追いかける。もう間もなく七年が過ぎようとしている。
ノミと毛玉だらけで薄汚れを通り越した、元は白かったであろ
う限りなく黒く汚れたベンジャミンを、雨に濡れるのを口実に
家に連れて入り、台所の隅、応接間の椅子、二階の寝室と一日
毎に場所を広げ、ついに二階堂家の長男として迎え入れること
に成功した日が、まるで昨日のことのように思える。あっとい
う間の七年であった。

 ビーグル犬以上の大きさの犬を飼育したことがなかった七年
前、ベンジャミンの到来は、ある意味で大きな転換点であった。
体力的な問題から、散歩も家の近くの刑務所の周囲を歩いて一
周するのが精一杯であったし、まして自転車で往復六キロをベ
ンジャミンと共に走るなどということは、まさに想像すらでき
ないことであった。

 最初の一年、雨の日以外は歩いて、二年目からは暑い日も寒
い日も自転車で往復。今は蘭ちゃんとベンジャミンの二頭を連
れての往復。ベンジャミンのくれた大きなプレゼントである。
 中型犬のベンジャミンには歩いて刑務所の周りを一周するだ
けでは運動不足、何とか適度の運動量を確保しなければと始め
た自転車での散歩が、私の足を鍛え、寒さに対する抵抗力をつ
け、病気と闘う気力までも与えてくれたのである。

 それだけではない、休日には五色台へ出掛け、自然遊歩道の
登り下りのきつい坂道を何とか歩けるようになり、太郎たち五
色台の野生児に出会うきっかけをも創ってくれたのである。


 七年前も、そして今も、ベンジャミンの表情は何一つ変って
はいない。痩せてどす黒く汚れていた毛並みが、つやつやと白
く光り、中年太りも手伝って堂々たる体格に変ってはいるもの
の、やさしさをたたえた目も、短い脚でちょこちょこと走る独
特の可愛さも、変ってはいない。 ただ七年が過ぎようとして
いるだけであった。

 南の空に金星がキラキラと輝き、西の空の下には太郎たちの
いる五色台が夕日を背に黒いシルエットを描いていた。雨上が
りの瀬戸内の夕凪の時間であった。

 公園の樹々の間を走り抜け、時折海の中を覗きこんではまた
追いかけたり追いかけられたりしながら遊んでいる蘭ちゃんと
ベンジャミン。頑張らなければ・・・・