午前九時、愛犬病院に着く。ももちゃんの受傷以来一日二回
の通院は日曜日でも例外ではなかった。待合い室には既にワン
ちゃん一頭、猫君一頭が順番を待っており、診察台の上では、
顔見知りの猫君が治療を受けていた。腸憩室のため排便が出来
ない猫君の治療に意外に時間がかかっていた。
近所に住んでいるという「おちびちゃん」ことラッキー君が
青年の腕に抱かれて来院、慢性病の患蓄がほぼ勢揃いしたよう
である。正面のソファーに座って順番を待っている母娘だけが
見知らぬ顔であった。
娘さんの膝に抱かれた猫君は瞬きもせず、時折両後肢を微か
に動かしているだけであった。外見上だけでも相当逼迫した状
態であることが想像できる。娘さんは周囲の人々の目をはばか
ることもなく、小さな声を挙げながら泣きじゃくっている。
母親がしきりに「もう何も反応しないでしょう……?」という
ようなことを耳元でささやいているのが時折聴こえてくる。
タオルとペーパーシーツにくるまれた猫君は動かない。
夜中中咳が止まらず家族全員が眠らずに看病していたという
ポメラニアン君の一時入院が決まり、ぐったりとなったままの
猫君の治療の順番がきた。ラッキー君はドアの外を見つめてお
座りをしたまま動こうともしない。
膝の上で甘えた顔をしているももちゃんだけが、肢を突っ張っ
たり、首をねじ曲げて周囲を見回したりと独り元気にしている。
診察台の上に横たわる猫君に向かって娘さんがしきりに謝っ
ている。湿った泣き声と共に聴こえてくるその声が胸を突き刺
す。いつもの心臓発作のため殆ど眠れなかった寝ぼけた頭は、
待合い室でその猫君を見たときからフル回転していた。
「何とかなるのだろうか? いや、状態はかなり酷そうだし…
どうなんだろう」
診察台が見渡せるソファーに場所を移し食い入るように先生の
動作を見つめる。
「吐きましたか?」
「いいえ」
「水は?」
「飲みませんでした」
注射筒に水を入れて先生が飲まそうと試みる。口を無理矢理
開けて少しずつシリンダーを押して水を送り込む。飲んでいな
い! 眼瞼の反射もないようである。聴診器を当てて心音を聴
いていた先生が口を開く。
「どうしますか? 治療を続けますか?」
「………………」
「楽にしてやりますか?」
「…………はい…………」
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薬品棚から注射液を取り出して「安楽死」の準備を始めた先
生の背中が怒っていた。全ての準備が終わり診察台の猫君を見
つめながら再び先生が尋ねる。
「本当にいいんですね……?」
「……はい」
左前肢の血管に注射針がゆっくりと射し込まれ薬液が体内に
送り出されていった。聴診器を当てた先生が猫君の目を見つめ
ている。十秒ほどが経ったであろうか、聴診器を耳から外した
先生が猫君の両の瞳を閉じ黙礼を送った。怒ったような顔の先
生だった。両手でしっかりと猫君を抱き抱えた娘さんが診察室
から出てくる。
「安楽死の薬は使いませんでした。麻酔剤だけで眠ったよう
です、心臓がかなり弱っていたようですから……」
「………………」
「もう少し早く来院されていたら……それだけが残念です。
でも、この状態で治る見込みはありませんでしたから…」
飼い主の心を気遣っての先生の言葉が待合い室に響いていた。
ももちゃんの診察を進めながら先生が低い声で呟く。
「あの子は一時的には快方に向かって元気にしていたのに…、
飼い主が忙しいから連れてこなくなっていたんですよ。
昨日連れてきたときにはもう手の付けられない状態にまで
なっていて…………」
「原因は?」
「直腸狭窄で、殆ど通過していない状態でした」
「オペは無理だったんでしょうねぇ」
「ええ、年齢も十五歳でしたし、何よりも全身状態が悪かっ
たんです。開腹手術で人工肛門と言うことも考えたんです
が、多分手術に耐えられなかったでしょうし……」
「お疲れさまでした先生……」
友人の脳神経外科医も同じであった。患者の死に立ち会った
後は必ずよく喋った。この動物病院の先生もそうである。普段
殆ど聴こえないぐらいの小さな声で早口に喋る先生が、しっか
りとした口調で話しかけてくる。猫君の死の瞬間、目頭が熱く
なってくるのを辛うじて耐えていた事が無駄になりそうであっ
た。「お疲れさまでした!」そう答えるのが精一杯であった。
外科用の消毒液と尿管カテーテルを手に、「ラッキー君頑張
れ!」大きな声で告げながら病院を後にする。今日から「お父
さん先生」がももちゃんの排尿係である。午前十時過ぎの太陽
は既にギラギラと輝き、いつもと変わらぬ町並みが夏の陽射し
の中で息づいていた。猫君、安らかに………………
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