九 月



9月6日
 日中のうだるような暑さからは想像もできないほどさわやか
な風が身体を取り巻いている。自宅裏の公園をヨロヨロと歩い
ているももちゃんの後をしっかりガードしながら周囲を見渡す。

 讃岐の低い山々の樹々はこの夏の渇水でかなりの所で茶色に
変色し始めていると報道されているが、公園の樹々は緑で一杯
であった。

 水銀灯の下で長い影をひきずりながら歩いていたももちゃん
がふと立ち止まり周囲を見回す。昨日辺りから食欲もかなり旺
盛になりよく動くようになってきたももちゃんが急に腰を落と
す。

 両後肢を折り曲げ、お尻が殆ど地面に着くような形で放尿を
始める。もう終わっただろうと思ってももちゃんの顔を見つめ
ても、まだしゃがんだままである。

 地面に黒々としたシミを残してももちゃんがまた歩き始める。
右後肢は相変わらず引きずったままで、左後肢もときどき甲が
地面を指している。


 診察室の横に置いているハートモニターからの音が耳につく。
上限二百五十、下限零にセットされているハートモニターのブ
ラウン管に映し出されている波形は規則正しく山と谷を描き出
している。

 三メートルほど離れた高圧酸素室の中で横臥しているケアー
ン・テリアの胸に装着された無線機から送られてくる心拍数は
百五十を境に上下している。

 酸素室の中のテリアは殆ど動かない。心拍数の割には呼吸は
ゆっくりとしていた。目を閉じたまま、腹部だけが上下に動い
ている。かなり危険な状態にあることだけは伝わってくる。

 下半身の四ヶ所に十センチ以上はある畳針ほどの太さの治療
針が射し込まれ、その先に電極を繋いでももちゃんの治療が始
まる。
 パルスが送られてくる度にももちゃんの両下肢と下半身がぴ
くっぴくっと跳ね上がる。もう慣れたのであろう、診察台の上
でおとなしく治療を受けているももちゃんは動こうともしない。
刺激が強すぎてお漏らしをすることも時折あった。

 「この子は本当に我慢強い子ですねぇー」

 「家でもそうです」

 「病院にきてから怒ったことが一度もない!」

 「家の子供たちはみんなそうですよ……」

 「ベンちゃんは違うでしょ……」

 「いいえ、一番聞き分けが良いのがベンジャミンですよ!」

 「じゃあ内面が良いんだ……」

 「先生が脅すからですよ……」

 「いいえ、絶対内面が良いんですよ!」

 ハートモニターの心拍数が百四十前後にまで下がってきてい
た。病状を訊くだけの勇気はなかった。食餌を十分に採ってい
るのなら何も必要ないという先生を説き伏せるように肝臓治療
薬のミノファーゲンとブドウ糖の静脈注射を右後肢の血管に射
ちももちゃんの治療は終わる。


 二回目の放尿を終えたももちゃんが家の勝手口に急ぐ。でき
るだけリハビリテーションを兼ねた運動を試みるように言われ
ているが、急激な運動で喉が渇いているのであろう、かなりの
速度でももちゃんが歩く。薄雲が広がり、風が強くなってくる。

 ハートモニターの波形が頭の中を駆けめぐり、横臥している
テリアの姿が目の底から離れない。