母親・さくら



8月4日
 午後四時三十五分、山上到着。また誰もいないのだろうかと
不安と共に駐車場へのカーブを曲がる。やはり誰もいない! 
いつもの位置に車を停めようとした時、雑草の中からワンワン
という声と共に「さくら」が跳び出してきた。

 痩せているものの、元気に私の周りを跳び跳ねて食餌の催促
をする。トレーを出して犬缶を開けるのが待てないようにワン
ワンと吠える。

 差し出した左手を小さな舌で舐める。犬缶を食べている間に
寿司桶を奇麗に洗い、食パンとドライフードを入れる。

 尻尾を振りながらがつがつと食べている「さくら」を殆ど思
考の停止しかかったまま、見つめる。

 角切りにした食パンを鼻先に持ってゆくと、ごくんという音
と共に飲み込む。スライスパンを与えると、くわえては落とし、
また新しいパンをくわえては同じところに落とす。

 もう少しビーフを食べるように促しても、大きなスライスパ
ンを運ぶ方に懸命で、食べようとはしない。

 ドライフードとパンを雨の掛からないトイレの裏の軒下に運
ぼうとしたとき、口の中いっぱいにパンをくわえた「さくら」
が私の方を見て一声「きゅーん」と啼き、崖下の茂みの方に去っ
ていった。

 何処かで待っている仔犬たちに運んでやるのであろう。いや
それだけでなく、今食べた犬缶も仔犬たちに食べさせるのであ
ろう。急いでいたわけがはっきりと解った。
 胡桃の時は、目の前に住居があり、母犬が仔犬たちの食糧を
運ぶという労力は必要なかった。しかし「さくら」の場合は、
駐車場からかなり離れた山腹の人目に触れない何処か安全な場
所に住居を移しているのである。何頭かの仔犬たちのために食
糧を運ぶという野生児ならではの仕事があったのである。

 身近で展開された胡桃の子育ては、この山の中では例外的な
ものであったということにやっと気がつく。


 どんなに私に心を許していても、どんなに私と遊びたいと思
っていたとしても、この五色台の中では「さくら」は野生児で
あり、だれ一人彼女を助けることはできず、また「さくら」も
自分一人で子供たちを育ててゆかなければならないことを十分
に知っていたのである。

 そこには当然の如く野生の掟が存在し、その厳しさの中で生
きてゆくことが「さくら」に与えられた天命なのであろう。

 「さくら」自身、その天命を天命として理解し受け入れてい
るのである。


 追いかけることはできなかった。ただ「さくら」の安全を祈
るだけである。

 いつもより多めのパンとフードを軒下に置き、仔犬たちのた
めに何度も行き来するであろう「さくら」が咥えやすいように
パンを旨く並べるだけであった。


 気温二十四度、無風、空から降りてきていた灰色の雲が涙を
流しはじめていた。