午後四時三十五分、山上到着。また誰もいないのだろうかと
不安と共に駐車場へのカーブを曲がる。やはり誰もいない!
いつもの位置に車を停めようとした時、雑草の中からワンワン
という声と共に「さくら」が跳び出してきた。
痩せているものの、元気に私の周りを跳び跳ねて食餌の催促
をする。トレーを出して犬缶を開けるのが待てないようにワン
ワンと吠える。
差し出した左手を小さな舌で舐める。犬缶を食べている間に
寿司桶を奇麗に洗い、食パンとドライフードを入れる。
尻尾を振りながらがつがつと食べている「さくら」を殆ど思
考の停止しかかったまま、見つめる。
角切りにした食パンを鼻先に持ってゆくと、ごくんという音
と共に飲み込む。スライスパンを与えると、くわえては落とし、
また新しいパンをくわえては同じところに落とす。
もう少しビーフを食べるように促しても、大きなスライスパ
ンを運ぶ方に懸命で、食べようとはしない。
ドライフードとパンを雨の掛からないトイレの裏の軒下に運
ぼうとしたとき、口の中いっぱいにパンをくわえた「さくら」
が私の方を見て一声「きゅーん」と啼き、崖下の茂みの方に去っ
ていった。
何処かで待っている仔犬たちに運んでやるのであろう。いや
それだけでなく、今食べた犬缶も仔犬たちに食べさせるのであ
ろう。急いでいたわけがはっきりと解った。
|
胡桃の時は、目の前に住居があり、母犬が仔犬たちの食糧を
運ぶという労力は必要なかった。しかし「さくら」の場合は、
駐車場からかなり離れた山腹の人目に触れない何処か安全な場
所に住居を移しているのである。何頭かの仔犬たちのために食
糧を運ぶという野生児ならではの仕事があったのである。
身近で展開された胡桃の子育ては、この山の中では例外的な
ものであったということにやっと気がつく。
どんなに私に心を許していても、どんなに私と遊びたいと思
っていたとしても、この五色台の中では「さくら」は野生児で
あり、だれ一人彼女を助けることはできず、また「さくら」も
自分一人で子供たちを育ててゆかなければならないことを十分
に知っていたのである。
そこには当然の如く野生の掟が存在し、その厳しさの中で生
きてゆくことが「さくら」に与えられた天命なのであろう。
「さくら」自身、その天命を天命として理解し受け入れてい
るのである。
追いかけることはできなかった。ただ「さくら」の安全を祈
るだけである。
いつもより多めのパンとフードを軒下に置き、仔犬たちのた
めに何度も行き来するであろう「さくら」が咥えやすいように
パンを旨く並べるだけであった。
気温二十四度、無風、空から降りてきていた灰色の雲が涙を
流しはじめていた。
|