ビルマについて

地理

ミャンマー国土の全面積は約678,500平方キロメートル。半分近くは森林地帯。イラワジ、サルウィンの二大河川が中央部の低地を流れ、肥沃な平野を形成している。中央部の代表的都市マンダレーの東にはシャン高原が広がる。これより南、イラワジ川流域は広大な扇状地になっている。


民族

ミャンマーの人口は約5千万。民族性は多様。約70パーセントはビルマ語を使うビルマ民族。8.5パーセントはシャン民族。6.2パーセントはカレン民族。アラカン民族は4パーセント。そのほかインド、中華民族を含め、100を超える少数民族が存在する。


宗教

ビルマ、アラカン、シャン、モン、中華民族含め、人口の約90パーセントが仏教、ことに小乗仏教を信仰する。チン、カレン民族を中心とするキリスト教徒は4パーセント。プロテスタントがその四分の三を占める。イスラム教徒は4パーセント。そのほか少数民族内ではヒンズー教やアニミズムも信仰されている。


歴史

モン民族

現在までに確認されたビルマ最古の文明は、モン民族によるものである。モン族はおそらく紀元前3,000年ころに移住してきたと考えられる。多くの遺跡、遺物は彼等が既に仏教の影響を受けていたことを証明している。ビルマの地勢は、マンダレーを中心とした中央平原地帯である上ビルマ、及び南部デルタ地帯の下ビルマとに二分される。9世紀までにはモン族は下ビルマ一帯を支配するようになっていた。

ピュー民族

ピュー民族は紀元前1世紀ころ上ビルマに渡来し多くの都市、王朝を建設した。この地は当時インドから中国への通商路上にあった。ピュー族が当時としては非常に洗練された文化を持っていたことは、中国の文献からも伺える。ピュー族はヒンズー教や仏教を信仰し、数多くの小王国を治めていたが、それらは9世紀の中頃、雲南地方にあった南詔王国の侵略によって滅亡した。

パガン王朝

ピュー族王朝滅亡後、北方から進出してきたのが、ビルマ民族である。イラワジ川中流域パガンに強大な王国を築き、ビルマ全土を統一した。その礎となったのがアノーヤター王(1044〜77)である。アノーヤターは象部隊を取り入れた軍を巧みに使い、周辺民族を次々に征服した。1057年にはモン民族の都市タートンを攻め、多数の捕虜をパガンに連れ帰った。彼等により文字、仏教などの文化がビルマ族にもたらされた。今なお残る二千を超える仏教遺跡に当時の繁栄が見て取れる。しかし、寺院勢力への金銭、資源の大量流出が次第に財政を圧迫するようになる。加えて北方では、元がその勢力を拡大させていた。パガン朝は、1277年から1287年にかけて四度に渡る元の侵略を受け、1289<年、元による傀儡政権が樹立された時点で、実質上の終焉を迎えた。

シャン民族

シャンとは東部からビルマに進出してきた民族の総称で、系統内に更に多くの少数民族が存在する。シャン系民族は、当初ビルマ族の支配を受けていたが、1299年パガンに進出し、王朝を名実共に滅亡させた。追われたビルマ族は1364年、都市インワに王権を再び樹立し、パガン文化を復興する。インワ政権そのものは1527年、シャン族によってまたしても覆されるが、ここに端を発したビルマ文学は、その後も隆盛を続ける。シャン系王朝の時代、民族相互の紛争が頻発した。背後には雲南からベンガルへの陸路を開発、確保することに熱心だった明の影響がある。

タウングー王朝

シャン系王朝に圧迫され南部に逃れていたビルマ族は、次第に勢力を盛り返し、1531年シッタン川上流のタウングーに新王国を確立した。ビルマ族を率いるタビンシュエティーは、ヨーロッパ伝来の火器やポルトガル人の傭兵を用いて再びビルマ全土の統一を果した。タビンシュエティーの義兄弟、バインナウンはさらに周辺に領土を拡大し、マニプール、アユタヤ全土の征服に成功した。しかしこの拡張方針は資源、資金の枯渇を招き、マニプール、アユタヤ双方ともすぐに独立を回復した。タウングー王朝は政治的中央集権制度が脆弱で、地方太守が割拠する対立の時代を迎えた。アナウッペッルンが1613年、再び国土統一に成功した後、後継者がパガン朝治世時代の諸制度を復活させたが、やはりここでも寺院への多額の支出が財政逼迫を招いた。北からはマニプール、南からはモン族の度重なる侵略により王国は弱体化し、1752年に滅亡した。

コンバウン王朝

続いて出現した征服王朝コンバウンのもとで、ビルマは最大の版図を獲得する。1753年上ビルマからモン族を駆逐したビルマ族アラウンパヤーの軍は、更に進撃を続け、1759年には下ビルマを平定した。マニプールの支配にも成功したアラウンパヤーは、ラングーンに首都を建設した。1767年その後継者シンビューシン王はタイに遠征しアユタヤを陥落させた。ボードーパヤー王もまたアラカン、テナセリウム征服に成功した。しかしこの急激な拡張主義はビルマを新たな敵と直面させることになる。既にインドを征服していたイギリスである。

英緬戦争

1824年、イギリス、タイの連合軍がビルマに侵攻。翌年イギリスの勝利に終わったこの第一次英緬戦争で、ビルマはアッサム、マニプール、アラカンの領土を喪失した。イギリスの覇権主義に終わりはなかった。この国の豊かな資源や港湾の利用権益に着目したダルハウジー卿の命を受けたランバート提督の艦隊が軍事対立をあおり、1852年、第二次英緬戦争が勃発した。再び敗れたビルマは、ペグー地方を含む下ビルマの領土を失い、混乱した国内には革命が勃発した。新たにビルマを掌握したミンドンミン王はマンダレーを新首都に定め、国家の近代化によりイギリスに対抗しようとしたが、その侵略を阻むことはできなかった。1885年の第三次英緬戦争を経て、残る領土のすべてがイギリスの手に落ちた。

英国の統治

1886年、イギリスはビルマをインドの一地方と定め、ラングーンに首都を置いた。政教分離施策が奏効し、ビルマの社会構造は一気に近代化した。ビルマ米の需要拡大によって経済も好転する。発展の一方、富と権力は常にイギリス人やインド人の会社に集中し、社会不満が増大する。1937年、イギリスはビルマをインドから分離し、英連邦の自治領とした。続いてバ・モウが初代首相に就任するが、39年、ウー・ソウによって政権を追われる。翌年首相の座についたウー・ソウは42年、日本と密通した罪を問われイギリス当局に逮捕される。

日本の侵攻

ビルマ国内の民族主義、国家主義者は、第二次世界大戦の勃発を独立の好機と見た。その一人、アウン・サンは中国共産主義勢力への接触を試みていた。察知した日本はアウン・サンの懐柔に乗り出す。支援を約束されたアウン・サン派は、近代的軍事訓練を受けるため日本に渡航する。帰国後の1941年、日本軍はバンコクを占領。日本の侵攻を期待したアウン・サンは、ビルマ独立義勇軍設立を宣言。翌年、期待通りビルマに突入した日本軍により、イギリスは一掃され、独立義勇軍による暫定政権が発足。しかし日本の軍権は、これを正式に認可せず、バ・モウを首班とする政権を樹立させた。アウン・サンはいまだ最高司令官の座にとどまることを許されたものの、独立義勇軍は日本によって解体され、ビルマ国民軍に改められた。国民軍は日本軍指導者により近代的軍隊として訓練された。1943年、日本の認可のもと、ビルマは正式に独立する。しかしこれは名目だけの独立で、バ・モウ政権は傀儡に過ぎなかった。幻滅したアウン・サンは、社会主義勢力との接触を再開し、1944年4月、反ファシスト機構を結成。以後1945年にかけて連合国側とひそかに交渉を続けた。反ファシスト機構は、その後反ファシスト人民自由連合と改名される。1945年3月アウン・サン率いるビルマ国民軍は、日本に反旗を翻す。日本軍掃討中、連合国側との交渉は本格的になった。同年8月、日本の降伏によって、ビルマは再びイギリスの植民地に戻った。イギリスとの独立交渉中、アウン・サンは、戦前首相の任にあった保守政治家ウー・ソウ一派によって暗殺されるが、ビルマは1948年1月ついに連邦共和国として独立を勝ち取り、ウー・ヌが初代首相に就任した。

独立ビルマ

独立は内戦の幕開けでもあった。反ファシスト人民自由連合は内紛によって分裂し、反主流派の共産党勢力が武装闘争を開始する。加えてビルマからの独立を求めるカレン民族が蜂起する。この一連の混乱は1950年ころ一旦終息するが、50年代後半、人民自由連合はまたしても内紛を始め、政府は再び混乱に陥る。増大する社会不安に対し、重農主義者のウー・ヌ首相はネ・ウィン参謀総長に事態の収拾をゆだね、ネ・ウィンは沈静化に成功する。1960年に挙行された総選挙によってウー・ヌ派が与党となるが、62年、ネ・ウィンのクーデターによりウー・ヌは逮捕される。ネ・ウィンは、17名の高級将校による革命評議会を立法府に制定。新たに結成されたビルマ社会主義計画党による一党独裁体制が確立された。政府は流通機構、製造業を国有化する。しかし工業開発に力点を置き過ぎたその政策は、経済を停滞させ、国民の間に不満が鬱積する。反政府運動が相次ぎ、1974年、ウ・タント元国連事務総長の葬儀に端を発したデモは最大規模になった。ウ.タントは50年代にウー・ヌ政権の顧問を務め、反軍政の象徴になっていた。80年代初頭には政府が外資への規制を緩和したこともあり、経済は好転の兆しを見せた。しかし物価の上昇と累積する負債は間もなく経済破綻を招き、1988年8月、後に8888蜂起と呼ばれる反政府暴動が勃発するに至り、政権はついに革命の危機にひんする。ソー・マウン将軍率いる軍が鎮圧に乗り出し、何千もの犠牲者が出た。こうしてビルマは、ソー・マウンを議長兼首相とする国家法秩序回復評議会が管理する軍事政権となった。

軍事政権

1989年、政府は正式国名をミャンマーに改める。経済改革に努める一方、新憲法制定のため国民議会を招集する。1990年には複数政党による選挙が実施され、国民民主連盟が、ビルマ社会主義計画党を引き継いだ国民統一党に圧勝する。しかし軍政府は新議会を招集せず、国民民主連盟の指導者ウ・ティン・ウと、アウン・サンの娘スー・チーの二人を自宅軟禁する。議会招集への国際世論の高まりは、91年にアウン・サン・スー・チーがノーベル平和賞を受賞すると頂点に達し、その圧力に屈したソー・マウンは、92年4月に退陣。続いてタン・シュエ将軍が政権につく。タン・シュエはウー・ヌを解放、アウン・サン・スー・チーの軟禁も緩和し、議会招集も認可した。こうして1993年1月、ようやく国民議会が開かれた。それでも憲政上の実権確保に固執する軍部は、度々議会に干渉し、審議を停滞させた。国民議会は、新憲法を制定できないまま97年3月、解散に追いやられた。一方、90年代はカレン族などの少数民族の反乱が相次ぎ、軍政府は常に対処を迫られていた。憲法作成失敗後、民主主義勢力と軍政府間の緊張は高まり、96年から97年にかけて二度に渡る国民民主連盟に対する大規模弾圧につながった。その後も民主連盟に対する取り締まりが緩むことはなく、多くの指導者の検挙、活動拠点の閉鎖が続く。ミャンマーの緊張は解消されないまま、今日に至っている。

(ウィキペディア参照)


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