三木家古文書によると、鎌倉中期頃の三木氏は、地頭名を宛て下さ |
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る程の有力者として成長し、戦国時代末期まで武士団の長として活躍 |
三木山にも居を構えていました。中世には長村・氏村・重村と三代にわ |
たり麻殖忌部集団の長者を勤め、特に 南北朝時代は、山岳武士の頭 |
領として大きな勢力を有して、38年間南朝に忠節をつくし、永くその |
節を曲げなかったです。しかし北朝の光厳・光明天皇には麁服を調進 |
しております。 これ等を証する古文書や後村上天皇綸旨等の南朝文 |
書の他、北朝方諸文書を保有し、又中世阿波の在地構造及び農民の |
諸負担の実態を解明する上での貴重な資料も有しています。天正13 |
年蜂須賀氏が阿波入国後は、政所役となって三ツ木村を治め、江戸 |
時代には、苗字帯刀で御目見得庄屋役を務める等しています。 |
花押 | 南朝宛行状(三木氏村宛)(1360年) | ||||||||||||||
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三木太郎兵衛尉殿 | ![]() |
正平十五年八月三日 | 依て執達件の如し | ![]() |
の庄御恩として知行 | 阿波の高越寺庄内西 | ![]() |
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時有の主君の命に | |||||||||||||||
より、恩賞として | |||||||||||||||
三木氏村(=重村 | |||||||||||||||
の父) に高越寺 | |||||||||||||||
庄内西庄を与えた | |||||||||||||||
もの。 | |||||||||||||||
後村上天皇綸旨(三木重村宛)(1367年) | ||||||||
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(宛名の館は武家の邸宅を意味するもの)![]() |
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天皇が三木重村の、 | ||||||||
忠節を聞しめした | ||||||||
まことに神妙である、 | ||||||||
ますます忠節を尽く | ||||||||
すようにとの天皇の | ||||||||
仰せである、以上を | ||||||||
実行せよ、という | ||||||||
感状の綸旨です。 | ||||||||