残 日 録
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「残日録」と聞けば藤沢周平の小説「三屋清左衛門残日録」を思い浮かべる事でしょう。小説を何度も開き、かつ、ビデオを何度も廻しました。残日という言葉に魅かれて使うことにしました。小説では残日を「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」の意味だと言っています。


 【2015年4月20日】高知大学の学生が怒田に来てくれるようになって8年余りとなる。思い返せば本当に多くの学生達が来てくれた。学生個々が怒田で見て感じ活動したことをきちっと継承することが私の使命だと思っていたが、振り返れば申し訳ない思いである。なかでも、1年目の青木君、2年目の音田さん、3年目の黒木さんと引き継がれたブルーベリーの試験栽培は、雪が残る2月の作業でかじかんだ手が辛かった。5年目を迎え満開の花を見ると3人の苦労を何とか実のあるものに出来そうである。(しなければならないのだ。)
 今年度は、新学部である地域協働学部の学生も来るだろう。先輩達の想いや活動が怒田にどのような影響をもたらしているか伝えたいと思う。社会に巣立って行った学生達と共に怒田があることを私の糧としたい。
 【2015年1月1日】新年は、長男夫婦と孫の5人で迎えた。生後6ケ月余りの孫の様を見ながら、人間の成長を思う。健やかに成長し、家庭を持ち両親とともに新年を迎える人生であることを願う。
私達も怒田に帰って来て9年、4月から10年目に突入だ。退職時に考えていた10年という区切りを迎える。若いと言われる歳でもないが、今少し頑張ってみようと思う。2015年に幸あれ!!


 【2014年12月15日】昨日の衆議院議員選挙の結果は、与党(自民党と公明党)の圧勝だった。安定多数を占めながら何故解散にと思っていたが、蓋を開ければ与党の思惑通りであった。「国を守る」「日本人を守る」との連呼は、国際社会のなかで生きる方向とは逆のように思うのだが、結果を見れば多くの国民はそのようには考えていないのだろう。歴史の歯車は、急激には動かない。これまでも1刻み動いたと思われる時が何度かあったが、2014年12月14日も動いた時として歴史に残る日とならないことを願うばかりである。少しづつ右に動いている歯車が憲法改正を視野に入れたと思う虚しく寂しき日なり。
 【2014年6月24日】長男の子どもは「哲晟(てっせい)」と命名の知らせあり。健やかに成長することを願うばかりである。おじいも元気で孫の成長を支えることが出来れば幸せである。考えてみれば、この孫が20歳の時、86歳なのだ・・・?
ブルーベリーの収穫と草刈りに追われた梅雨明けやらぬ6月下旬の一日なり。
 【2014年6月19日】長男夫婦に男子誕生、2010年に結婚してなかなか妊娠の知らせがなく、あれやこれやと気を揉んでいたが、順調な出産に安堵する。母子ともに順調な様子なり。2人目の孫誕生に幸せを感じたり。
 【2014年6月14日】田畑勇太君と恵莉さんの結婚を祝う会をふるさと館で行う4月から怒田に住み農業を主体に生計を立てることに挑戦を始めてくれた二人。怒田のおんちゃんおばちゃんに友人達が90人余り集って二人の前途を祝う。勇太君のご両親も恵莉さんのご両親も大切に育てた子どもが四国山地の山奥で暮らすことに大きな不安を抱いていることは誰もが思いやることであるが、今日の盛り上がりはそうした不安を和らげるものだった。怒田の人達は、怒田に住み怒田の人となり共に生きる決意を受け止めつつ、二人と一緒に幸せに浸った。結婚・・・良きかな!!  
 【2013年6月24日】昨日の日曜市で怒田の農産物「ぬたたの恵み」を販売していたら、5年前”妖精ぬたた”を見つけた飯國ゼミ13人衆の一人が来てくれた。久しぶりに高知市に泊り、市を散策していて見つけてくれたのだ。『Fですが覚えていますか?』ときた。なかなか忘れはしないだろう。”ぬたた”と共にある限りは13人衆も共にあるのだ。13人衆に見出されてからの”ぬたた”は、怒田を守るために様々な所を駆け廻っているのだ。そして、13人衆と共に頑張っているのだ。学生時代の活動が新たな形で引継がれている様に感動してくれただろうか?今朝は新たな気持ちで仕事に向かっただろうか?こうした出会いは嬉しい、これも”ぬたた”の恵みなり。

 【2013年3月18日】初孫の名前は”友紀子”。今日は1ケ月健診、順調な生育状態とのことで一同安心。我が子の時は気にも掛けなかったことが、今の育児では神経を使わされていることに疑問を感じつつ見ている。人間と云う生き物は、生まれた時から乗り越えなければならない幾多の障害がある。乗り越える力こそ地球環境に生き残るための進化ではないかと思う。はしかもその一つだろうが、昔は早く罹って免疫をつけることが言われたが、最近は予防接種で発病のリスクを解消している。予防接種で免疫がつくのだろうか?母体が免疫を持っていれば新生児も6ケ月は罹らないと書いてあるが、予防接種の効果は新生児にも及ぶのだろうか?もし及ばないなら新生児は隔離状態に置かないといけないことになる。育児の本によると友紀子はこれからたくさんの予防接種を受けるようだが、これが人間の進化だろうかと思うお祖父さんである。ともかく友紀子のために健康で清潔なお祖父さんを心掛けなければ・・・。
 【2013年2月18日】12月から里帰りしていた長女が今日午後3時4分3300グラムの女子を出産。我が子3人の出産は、パートナーがさっさと段取りして私は鬼の居ぬ間と羽を伸ばしていたので産みの辛さを見る事もなく過ごしていた。大きな腹を抱えた娘との生活のなかで妊婦の苦労を垣間見、陣痛が始まってから出産までの時間の長いこと、当日でも早朝からパートナーと駆けつけ付き添うこと11時間久しぶりに疲れました。孫が生まれた喜びよりも、母子ともに元気である姿に安心し、一仕事終えた気分でした。
 それにしても10月10日間大切に育てた命、その命が新たな命を産む生命体になるためにこれほど母体を苦しめるとはこんな理屈を考えながら待ちました。”産みの辛さ””母は強し”納得です。産みの辛さを知らない男ができることは、命を大切にし、平和な社会を共につくることか!
 私の命が新たな世代につながりました感謝!!
【2013年1月17日】朝から雪が舞い夕方には積もり始めた。夜が深まるに従い北風が強くなり突風が唸り声を上げる。こんな天候になっても今はストーブがあり電気炬燵があって家にあれば寒さも感じない。ふと遠い記憶を辿る。囲炉裏があって炭火が赤々とおこっていた。父は何時もの場所に座り酒を湯呑で飲んでいる。妹と私は、母が薄暗い土間の炊事場から料理を盆に載せて運んでくるのを待っている。家地が傾いて障子戸は立てつけが悪く、隙間風が入っていた。特段に防寒着という物も無かったが寒さが辛いと思った記憶がない。現代の便利さのなかで失われた耐える強さだろうか。ただ母の霜やけた手を思い出すと今の便利さがあったらと思う。寒い日は、母が入れてくれた湯たんぽが嬉しく大事に抱えて寝ていたことが懐かしい。明日は雪かきに頑張らねば。

 【2012年3月24日】今年の冬は長く厳しい寒さが続き草花も例年になく遅れている。農家の段取りも同じである。少しでも寒さが緩んだり雪や雨が上がると田や畑に入り春の準備に勤しんでいる。こうした時を重ねた人達が一人二人と病や怪我で病棟生活に入る話を聞かされるにつけ、爽やかな春の訪れを願わずにはいられない。高齢化が進むなかで自然環境の変化が一層辛く厳しく感じられる。
 昨日は高知大学の卒業(修了)式だった。怒田で農業体験や卒業研究を行った学生達にも旅立ちの時が来たのだ。怒田で流した汗や涙(?)がきっと役立つ時が来ると考えながら一人一人の顔を思い描いている。 「飯食って、恋をして、仕事して、遊べ!!」と彼等の面白き人生のスタートに拍手をする。
 留守の合間に、県外に帰郷する卒業生達が立寄ってくれたようで、感謝の言葉に添えて「のこぎり」が置かれていた。怒田での私の仕事を見て「のこぎり」を選んでくれたことが嬉しい。彼等の成長が感じられて嬉しい!!こうした出会いと別れが厳しい冬にある私達夫婦に勇気と希望を与えてくれている。 春に向かう嬉しい一日なり。


 【2012年 元旦】雪もない北風もない青空の下で新しい年が始まった。こんな穏やかな一年であって欲しいものだ。昨年は怒田部落の鹿・猪侵入防止ネット設置(怒田版:万里の長城)に関わり、2千mを超える設置作業は2月から始まった。高知大学や高知工科大学の先生と学生に作業支援をいただき、また、大学以外の方々にも様々なご支援をいただいた。12月23日に部落総出でゲートを残して仕上げることができた。このように設置に至るまでには、多くの人の善意に支えられ感謝の日々でもあった。そして私は肩の荷が降りたということを初めて実感することになった。元旦も多忙な日々から解放された安堵感が心の疲労を癒している。パートナーも私に振り回された2011年を越えたことに安堵している。穏やかな日和の初詣で ”こんな生活を続けていたら逃げられてしまう。”これが一年の計となった。

 【2011年12月9日】初雪、一日中小雪が舞い尾根は白く染まった。日差しを避けて農作業をしていたのに何時の間にか陽だまりを追っている。日々の生活に追われこんな変化に気付かずに居る。日本での豊かな暮らしとは、こうした変化をできるだけ受けないように感じなくてもすむようにすることだと都会の生活環境を見ていて思う。人間の生きる糧である食糧の生産にもこうした考え方が強く影響している。その結果として季節感がなくなったと良く言われる。四季が織りなす日本で生きる人間は、季節の変化に鈍感になることが豊かな生活に通じるのだろうか。変化をリスクと考えず、受入れる強さを大切にして欲しいと思う。怒田で暮らしているとあらゆる生物が四季の変化を受入れて自らの種を残そうと戦っているが、ひとつ人間だけは豊かな暮らしを求め、この変化から逃れるためにうごめいているように感じられる。このうごめきをしない人が敗者ではなく、変化を受入れることのできる強い人だと言ってみたいのだが?
 【2011年12月3日】5年前の今日は夕方から雪がちらつく寒い日だった。体調を崩した父を救急車で高知市内の病院に連れ、点滴治療を受けて回復したが、あまりの冷え込みに一夜の入院をお願いしての深夜、危篤の電話があり再度病院に駆け付けたことが昨日のことのように思い出される。5年という時間の経過のなかですっかり父の居ない生活に追われている。今日はそんな生活を止めて亡き父(廣好)を偲ぶ集い「5年祭」を執り行った。5年の間に父につながる新しい顔が集っていることに感慨を覚えた。自分のことを懐かしんでくれることも嬉しいが、それにもまして、未来に向かって新たな絆が結ばれていくことが喜びであり安らぎであろうと息子は思って父の大好きだったお酒を大いに楽しんだ。

 【2011年8月31日】今年も8月11日から9月26日まで21人の学生が4泊5日の宿泊体験に来る予定である。今は6組目が来ている。1人の場合もあれば3人の場合もある。私の農作業を一緒に行う場合や他の家に頼まれた作業を一緒に行う場合など基本的には怒田での暮らしを体験させることにしている。作業時間は8時30分から12時まで、午後は3時過ぎから6時までとしている。この体験を通して田舎暮らしが好きになったり百姓に興味を抱くことは期待していない。むしろ怒田で生きる厳しさを体感してもらいたいと思っている。学生達の性格や意識(意欲)や生活態度などは本当に十人十様である、その組み合わせの妙を楽しんでいる自分が居て、、明日もしっかり働いてもらうべく作業予定を組んでいる自分が居る。それも怒田での体験が学生達の自立に少しでも生かされればとの期待感だと納得する自分!!傍で見ているパートナーは学生が可哀想と言う。

 【2011年4月25日】林道オウネ線の入口で焼畑の準備作業中に携帯が鳴る。懐かしい名前が画面に表示されている。「就職が決まりました。」と懐かしい声が弾んで聞こえる。昨年度は幾たびか怒田に来て、怒田を元気にと考え行動してくれていたが、就職が決まらないままに卒業して実家に帰っていた。地震や原発事故で若者の雇用不安が一層増すなかで、よく頑張った!!本当に良かった!!怒田で共に汗を流した若者が新たな旅立ちをすることは怒田での日々が少しは後押し出来たようで嬉しい。5月連休明けから仕事に行くと言う。良き先輩や同僚に恵まれ、彼を成長させてくれる職場であることを祈る。
しばし卒業前にお別れの挨拶に来てくれた学生達のことを思う。社会人として職業人として良きスタートを切っただろうか。これまで学び経験したことを自信にして立ち向かっているだろうか。怒田でも新たな挑戦が始まっています。共に頑張ろう!!

 【2011年3月26日】日本の歴史に語継がれるであろう3月11日の大地震と原発事故が収まらず、遠く離れた私達の生活にも影響が見え始めたなかで63歳の誕生日を迎えた。娘や妹から祝いのメールが届く。今日も10代20代の学生達と畑で働き、また怒田の70代のオジサン達と道づくりで働く。11日から新聞やテレビで問われているのは人の命である。様々な世代と共に労働できる命に感謝したい。誕生祝いのメールと共に職場の同期であった人の命が失われた知らせもあった。彼は昨年ガンが見つかり余命数ケ月の診断を受けていた。同期の死はことさらに辛く寂しい。午前中は雪が舞った。自然は時には過酷であるが、これに負けなかった先人が居て今の私があるのだと思う。明日もさらに冷え込む予報であるが、80前のオジサンと一緒に負けずに働こうと思う。命に感謝して!!
 【2011年1月1日】凍てつく朝、外の温度計はマイナス5度をさしている。、遠くに白銀の山脈が幾重にも青空を切って座し尾根は初日に輝いている。時折飛ぶ鳥のさえずりの外は音のない静寂の世界である。今年もこの空の下、四季の移ろいを眺めながら生きろと誰かが告げる。
昨年は新たな出会いを喜べる己を仕合せと感じつつも、同じ時代を生きた人との別れが残された時間を意識させた。それにしても多くの人に支えられて期待を持ち続けることのできた2010年であったことに感謝したい。
日差しが緩やかに山郷に落ちてくる様を眺めながら朝早くからおせち料理に精出しているパートナーの呼ぶ声を待っている。今年もこんな平凡な思いでスタートできることに感謝したい。

 【2010年10月15日】2年前に怒田から情報発信と張切ってこのHPを作った。当時怒田に入っていた大学生からアクセスカウンタを付けるようにアドバイスをもらい今日で2年が過ぎる。4千7百を超える数字が記録されている。本当に有難い数字である。様々な思いが込められた数字である。そして私を励ましてくれる数字であり、日々の生活なかで感謝を大切にすることを忘れないように戒めてくれる数字である。

 【2010年10月3日】 ♪♪月が出た出た〜月が〜出た〜ヨイヨイ♪♪  怒田地区公民館活動として懇親会が行われ怒田の51人が出席した。神祭や会合に顔出さなくなった人や体の具合で長時間座ることが辛くなった人などが増えてくるなかで、そうした方々も時には集える場があればと良いと昼食をはさんでの懇親会が計画された。現在怒田に住んでいる人は80人余りである。雨の中を51人は嬉しい。皆さんの顔が明るい。10人を超える高知大学の学生が裏方を手伝ってくれた。そして学生の出し物は、懐かしの盆踊り「炭坑節」と「東京音頭」である。懐かしいリズムに体がひとりでに揺れる。いつの間にか踊りの輪に加わっている。日頃は田や畑で忙しく働いている人が・・・。何時も大人しそうにしている人が・・・。○○さんは踊りが上手だったんだ。新たな発見がある。踊る人も見る人も終戦直後の青春時代を甦らせている。やっぱり踊るなら「炭坑節」ぜよ!!

 【2010年8月14日】長男結婚式なり。親の役割が一つ終わった思いが強い。そしてとても嬉しい。様々な思いがあるが何よりも平和な社会のなかで子育てが出来たことに感謝している。子ども兵役に取られたり戦場に送るという悲劇を味わうことなく生活できていることを仕合せに思うと同時に戦争体験した父母の願いを私も引継いで行かねばと誓う。久しぶりに仕合せに満ち足りた一日なり。
 【2010年7月10日】今日も学生達が元気な姿を見せてくれている。自分達が蒔いた人参が伸びてきているので間引きをさせる。作業は、大きく生長したものを残し小さなものは引き抜いて捨てることであるが、一人の女子学生が『可哀想』と言って抜いたものを別のところに植えている。学生達にはこれまで何度か間引き体験をさせてきたが、初めての見る行動である。多くの野菜作りにおける間引きは、早く生長したものを残し、遅れてきたものは除去される。そうして形の良い美味しそうな野菜が作られて行く。百姓していると様々なところで間引きがある、ふと人間社会の有り様を思い手を止める事がある。学生がどのような思いから『可哀想』と感じ、行動に移したのかは分らないが、その心を大切に育てて欲しいと願った。
【2010年6月10日】私達の期待を裏切り続けた鳩山内閣に替わって管内閣が誕生し、その支持率が一面を飾る新聞を開くと「ミズノ子会社 大豊町撤退」の記事が飛び込んできた。プロ野球チームのユニフォームの製作、特に野球日本代表やワールド・ベースボール・クラシック代表のユニフォーム製作でマスコミにも取り上げられ、その技術力も高く評価されていただけに驚きを持って読んだ。記事では、51人の従業員のほとんどは大豊町の人とある。私のような高齢者でなく若い世代を多く雇用していた大豊町の大企業である。以前は多くあった縫製工場も少なくなるなかでの今回の撤退は、企業誘致について考えさせられる。やはり、企業にとって中山間地域は安価な労働力市場でしかないのだと、地域の資源を活かした企業でないと地域の活性化は担えないのだと思う。新しい内閣の言う「幸福」がむなしく、新たな期待の裏切りが始まったように思える一日となった。
 【2010年5月11日】 百歳バンザイ!! 昨日豊伯母さんの100歳祝いに招待があり大阪に行ってきた。娘、妹夫婦、甥姪が集う。高知からも私を含め5人が出席。100歳になって益々元気な様子!! 心から笑っているようで笑顔が清々しい。語る言葉に欲がない。日々命あることを楽しんで100歳を迎えたことを喜んでいる。動作も軽やか、出された料理も皆と同じように食べ、ビールもいけるとあっては、誰しもが望む100歳の姿だ。昨年白寿で集い、今年は100歳で集う。伯母さんのお陰で日頃生活に追われ疎遠になっている兄弟姉妹、従兄弟・姉妹が顔を合わせる機会を得ている。伯母さんが語る100年間の思い出は、我々に北村家の遺伝子を持っていることを再認識させる。来年は101歳を祝うべく元気でこの一年を頑張ることを誓って別れる。100歳・・・欲にまみれた私には険しい道のりなり。 

 【2010年5月6日】日頃見かけない車と頻繁に行き会う。幼子の声が聞こえる。田や畑に若い者の姿がある。懐かしい人との出逢いがある。怒田が昔のように活気に満ちた集落となる。ゴールデンウィークという限られた時間のなかであるが、怒田の底力を垣間見た思いである。古里に帰って来た人、連れられて来た人それぞれに怒田が心安らぐ土地であって欲しいものだ。今年も昨年に増して大勢の高知大学の先生方や学生達が来て、山や畑で汗を流してくれたことに感謝しつつ怒田という地域に生きることを改めて問う連休なり。

 【2010年3月31日】怒田に来てくれた高知大学の学生達で、この3月に卒業(修了)した学生達の卒業論文や報告書が届いた。疲労感の少ない夜なべに読んでいる。様々な視点から怒田や大豊町あるいは嶺北地域の現状や課題を明らかにし提言をしている。学生達の学習の成果を色々な機会を通じて地域に問うことが、私の役割と新たな使命感を抱いて読んでいる。楽しく嬉しい!!
 【2010年3月26日】自然は残酷だ。暖冬と言われた今年はぜんまいが早くから芽を出していた。その中で昨夜零下2度を記録した。今日は一日中小雪が舞った。怒田はぜんまいの栽培が盛んである。最近、国内産の消費が増えて価格も良くなり、私達は例年にもまして手入れを行いこの春に備えていた。これまでも遅霜の被害を受けることはあったが、零下2度では「ぜんまいが凍った。」と言われ完全に萎れてしまっている。新しい芽が出ることを期待して待つしかない。百姓はこうした自然の過酷な仕打ちをじっと耐えてきたのだ。それにしても辛い春の初めとなった。

 【2010年3月19日】先日長男の結納を行い、今日は長女がパートナーの仕事の関係で名古屋に移った。子ども達が成長し、自分達の生活を着実に築いている。そのことを喜ぶ気持ちよりも親の役割が果たせた安堵感がある。親である私達を見て育った子ども達は、親を反面教師にパートナーとの人生を楽しんで欲しいものだ。異なる生活感や風習の中で育った者が一つ屋根で暮すことはスリリングである。30余年を過ぎても激しく角を突き合わせている私達、「熟年離婚」と言う言葉の間をさ迷う緊張感、これも子育てが終わった後の人生の一つの楽しみでありたいものだ?

 【2010年3月1日】今日は旧暦の1月16日、怒田の鉾天神社で一年の無事と豊穣を願う神事を行う日です。生憎の雨となりましたが、25人を越える人が集いました。今年を頑張り、来年もここに集うことが生きがいであり、仕合せにつながることですね。神様、怒田を大切に守ってください。
 【2010年2月28日】昨日から「ふるさと未来会議」の企画の「棚田を感じる旅in高知@怒田」で若人来てくれた。島根、京都、山梨、東京、埼玉、新潟、高知と地域性に富んでいた。何よりもここまでこようと思う意欲に敬服と感謝!! 「頑張れ!」の言葉を言いつつも急がないで「カタツムリゆっくり登れ富士の山」を言いそびれてしまいました。長い人生を展望して今何が出来るかを模索することを楽しんで欲しい。それがあなた達の世代の特権かも? 怒田へようこそ、そしてありがとう。
今年、1年間怒田で頑張っていた筒井さんがリーダーで来てくれたことは、嬉しい!!春夏秋冬怒田に居たことが、あなたを後押しできているとすれば私たちも仕合せです。


 【2010年2月23日】高知市内に出て、二人の知人を見舞う。命と向き合う中で、新たな生命を得たようで元気な姿を見せてくれた。私が社会人となる時、怒田で送別会を近所の小父さん小母さんがしてくれた。その時、谷奥の小父さんが言った言葉は今も鮮明に私を息遣いさせてくれている。「人生には3度生命の危機がある。」と言って諭してくれた。今の私は、何度危機を乗り越えてきたのか判らない?これこそ生きる楽しみかもしれない。今は亡き谷奥の小父さん、小父さんはどうだったの?と聞いてみたい学です。
 【2010年1月31日】昨日2007年から怒田で調査等の活動している高知大学の飯國先生とゼミ生13人が来て、「卒論報告会・感謝祭」を行った。怒田への感謝の気持ちをこのような形で取り組んでくれたことが何よりも嬉しい。怒田の者も30人参加してくれた。日頃の学生達の活動ぶりを見て、驚きと若者達を見直す言葉が聞かれるようになっているが、学生達との触れ合いを楽しみに大勢参加してくれたと思う。報告会の後は、、明るく元気な会話が弾む本当に素晴らしい酒宴となった。「怒田が好き」と言ってくれる学生達の言葉に誇りと勇気をもらったことだろう。
私達夫婦にとって、この学生達は、怒田に帰って最初に対応した学生で、過酷な農作業にも揺るがなかった真摯な姿勢、13人という大所帯にも係らず堅いチームワークを維持してきたことに強く印象付けられている。4月からそれぞれの道を切り開いて行くことになるが、多くの人と出逢い、苦しい時も必ず人との出逢いの中で乗り越えられることを信じて、豊かな人生を歩むことを祈る。
帰りのバスを送るパートナーの涙は、我ら夫婦が若人にもらった感動であり、思い出を深く刻んでいる証である。

【2010年1月23日】昨日から田村(屋号)の前の檜を100本近く切り倒し、整理している。昔は田んぼで、やがて畑に、そして耕作が困難となり檜を植えたのだろう。約15年ぐらい経過し、その幹を勢い良く伸ばして来ていた。「切らせて欲しい。」との私の申し出を、躊躇いの表情も見せず、「どうぞ切ってください。」と言われた。その言葉に甘えて昨日から福太郎さん、敦雄さん、孝雄君の協力を得て、切り倒し、杭などに欲しいと言う近所の人に分け、残りは焼却している。チエンソーを当てながら亡き父の事を思う。父だったら絶対認めなかっただろう。折角ここまで育った木を切り捨てるなどとは決して認めないだろう。申し訳ない思いを抱きながら作業を続けている。周囲の人達は、この檜林を切ることに賛同の言葉を投げ掛けてくる。しかし、私は素直に受け止めることが出来ない。多くは、厳しい暮しのなかで杉・檜に対する価値観が父と同じ人達ではないかと思っている。私の目指す「魅力ある怒田部落」づくりには、幾多の寂しさや辛さを乗り越えなければならないようだ。

【2010年01月08日】 米を購入したいとの嬉しいメールが届き、今日高知市内へ届ける。渡しながら「米を買ってくれることで怒田の水田が守られている。」との言葉を飲み込んだ。米を売るのに理屈はいらないとの思いがよぎった。稲作を取り巻く環境は年々厳しく、価格もさることながら身体的負担の大きい棚田での栽培は、高齢者にとって一層厳しくなっている。田畑を荒らしたくないという本能的とも言える百姓魂で頑張っている。「怒田の米は美味しい。」と言って買ってくれる若い母親に心から感謝したい。テレビは、相変わらず肉主体の料理番組を流している。この社会でお互いに支え合って生活する気持ちをご飯とおかずの食文化の復活につなげることができればと思う。

 【2010年 元旦】 朝起きて外を見れば、大晦日からの雪が積もっている。白銀の世界にときめく年ではないが、年々新年の門出を喜ぶ気持ちが萎えている。今年も胸の奥深くに何かが重くある。不安や焦りが溜まっているのだろうか。午後に届けられた年賀状がそれを忘れさせた。みんな頑張っている。それぞれに一年間の努力と新しい年への希望を伝えようとしている。それに共感し、共有しようとしている自分がいる。来年の年賀状に感謝の気持ちを託せるように努力しなければ、これが今年の初心だ。