怒田の歴史と文化
 はじめに   「怒田ってどんなところ?」と聞かれて説明に困った経験は誰しもが持っているでしょう。「昔はどうだったが?」と聞かれたら益々困ってしまいますね。身近にある資料をめくり、先輩達に聞き、怒田に関りのある方々にお願いしてまとめて見る事にしましたが、これがなかなか難しいのです。ともかく、皆さんが知人や子や孫に生まれ育った怒田を理解させる上で参考になればと思います。また、情報お持ちの方は教えてください。
 参考資料 「大豊町史(古代近世編、近代現代編)」 大豊町教育委員会発行
「土佐藩の山村構造」 間宮尚子著
「定福寺の歴史と文化財」 前田和男著編 定福寺発行

「東豊永小学校記念誌」東豊永小学校PTA
 情報提供者  オカの稲穂さん、キトウラの和夫さん、マドの栄吉郎さん、オオナカゾのてるみさん
 最初の住人 怒田に最初に住み付いた人は、渡辺家の先祖だと言われています。宮の上に大きな岩に囲まれた祠がありますが、そこに祭られており、渡辺家の方々が守っています。 元は「たかたび」の川べりに住んでいて、洪水にあって居を移したと言われています。
 平家落人伝説 平家が壇ノ浦の戦いに敗れたのは1185年3月です。伝承ではこれ以前に人が住んでいたので、平家の落人が開拓したとは言えないですね。 
 最も古い記録  東豊永地域で現存している最も古い記録は、定福寺の関係で1391年です。参考までに大田口の豊楽寺は1100年があります。
 天正地検帳(長宗我部地検帳) 布田(当時はこのように表記)が記録されている最古の文献のようです。豊永村の地検帳が完成したのが1588年だそうです。 
布田村(三津子野は別)には17人の名前と居住地字が記されていて、この人達は土地の保有耕作権を持っていた百姓です。名本(今の区長職?)は「オカヤシキ」に住んでいた。次が17人の居住地字です。「川チ屋敷」「川チ北ノ上」「ヌシヤシキノウエ」「宮ノウシロ」「前ヤシキ」「ムカイヤシキ」「橙屋敷」「ホリタノウエ」「ホリタ」「ムカ井タノウエ」「ムカイタノ北」「カチヤノウエ」「オカヤシキ」「コニワ」「コニワノ上」「コニワノ北」「アケ山」 
今の屋号と一致するものもありますね。
支配していたのは大平に住んでいた豊永権進です。

 御留山改帳 1683年の御留山調査では、家数61軒(三津子野含む)となっている。御留山とは江戸時代、林産物や動物を取ることを禁止された山だそうで、怒田山と大法師山が対象となっています。住民は山があっても勝手に山に入れず薪や材木の確保に苦労したのではないでしょうか?
 土佐国七郡郷村帳  1743年編纂されたもので、怒田(三津子野含む)は戸数68軒、人口599人、牛46頭、馬2頭、猟銃6丁となっている。
 大庄屋の報告  豊永郷の長である大庄屋が1745年に藩に差出した資料があり、当時の怒田(三津子野含む)は郷士3人、家数68軒、名本、老、本百姓が601人(男316人、女285人)、怒田で取れる紙草で紙を漉く人が12人居たことになっています。当時の東豊永地域は紙と茶の生産が盛んだったようです。
 お宮  正式には鉾天神社と言い、ホコノ天神または天神と言う。1578年風害で破損し、在所の氏子が建立したと伝えられている。現存する最も古い棟札は?
 世帯数と住民数                                  
 年  世帯数  住民数
 1960(昭和35年)  74 322
 1970(昭和45年)  63 269 
 1980(昭和55年)  61 195 
 1990(平成02年)  63 152 
 2000(平成12年)  56 111 
 2010(平成22年)  53 100 
 産めよ増やせよの時代(戦前)を知りたいですね。
 お堂  郷中観音の第3番札所、神亀年中行基の開基と言われる。神亀は、724年から728年の元号ですので、真偽はともかく古くからあったと思われます。本尊は薬師如来です。現存する最も古い棟札は1630年です。
 秋の神祭(じんじ)



上段は昭和16年
下段は戦後
 

神祭のしきたりは、整理中です。皆さんの思い出を寄せてください。
面をかぶった人に追いかけられて怖い思いをした人が多いですね。
 虫送り  農薬のない時代の百姓にとっては大切な行事で、、神仏に願い、天に任せるだけでなく、具体的行動することで害虫駆除の意志を示したのでしょうか。大豊町内でも形式は様々です。怒田では大きな太鼓を叩きながら部落の隅から隅まで回ったようです。(詳しい情報収集中)
災害支援活動
 
1995年1月17日は阪神大震災が起きた日です。被災された方々を励まそうと怒田から福寿草を送ったのです。
同年2月21日「カミ」のおばさんが種から育てたものを箱詰めしている様子です。
 発電所と分水  東豊永発電所は1922年(大正11年)4月着工、1924年1月10日完工。
発電所建設については、怒田の先人の努力がある。それは建設予定地は現在の場所ではなかったが、知恵を出し合い、長い時間を掛けて部落の合意を図り、誘致するとともに水利権を譲渡せず、水田用に優先分水をさせることで怒田の水田開拓と安定した稲作を将来につなげようとしたことである。
今こそ先人の行動に学ぶべき時だと思われます。
 電気  怒田に電灯線が引かれたのが1925年(大正14年)12月である。
日本で最初に電灯が灯ったのは1878年、高知県は1898年である。大豊町内で見ると怒田に電気が来たのは早い方である。
電気は来ているがお金がいるので迷った家もあったでしょうね?新しい年を電灯の下で迎えた先人の思いは・・・!!
 道(自動車道)  怒田に最初に自動車道が付けられたのは、1970年で現在の町道八畝柚木線である。この線と林道平野線を幹線に多くの支線が掘られ今ではほとんどの家の庭先まで車が入れるようになっている。怒田で最初に自動車を買ったのは誰でしょうか?
 怒田小学校  1865年(慶応元年)下ノ土居の医師吉田秀光により「禎祥堂」という寺子屋が設立され明治3年には寺子20名となっている。明治5年に廃止されている。そして、資料等から判断して明治9年から明治13年の間に怒田小学校が創立されたもとの思われる。1880年(明治13年)の生徒数29名の記録がある。三津子野、怒田、南大王、川又、八畝の5部落を通学区としていた。1930年(昭和5年)に粟生、川井小学校と名目統合、翌6年に東豊永尋常高等小学校に実質統合されたが、分教場として4年生まで通っていた。1935年(昭和10年)に閉鎖されている。東豊永小学校1校に統合するについては村を二分しての大紛争となり当時の「高知新聞」や「土陽新聞」を賑せている。何時の時代も学校は地域の宝であるように思われる。
 東豊永小中学校 1915年(大正4年)栗生尋常小学校から東豊永尋常小学校と改称(高等科併設)
1930年(昭和05年)大滝に校舎新築移転
1941年(昭和16年)東豊永国民学校と改称
1947年(昭和22年)東豊永小学校と改称(高等科廃止して東豊永中央中学校に)
1954年(昭和29年)中学校は西川に新築移転
1955年(昭和30年)中学校は東豊永中学校と改称
1973年(昭和48年)中学校は大豊中学校に名目統合
1974年(昭和49年)小学校が西川に新築移転、中学校は大豊中学校に実質統合
2000年(平成12年)西峰小学校統合
2004年(平成16年)休校(大豊小学校として統合)
戦後における小学校の最多児童数は昭和33年の396人だそうです。
 かいこ(養蚕)  怒田の秋山楠蔵という人が1892年(明治25年)に自宅に養蚕伝習所を開設するなど養蚕奨励に努めたので、このころから養蚕が盛んになったそうです。「土陽新聞」によると1902年9月、怒田に蚕種貯蔵所設置申請があり、1906年8月には、さらなる調査の費用を申請とある。この調査は、県内7ケ所で行われ、通常なら春に孵化するので、風穴内に貯蔵して秋に孵化させる実験調査である。怒田のどこに「風穴」があったのでしょう?