梅野の心は重く沈み込んでいた。酸素テントの中で眠ってい
る修一の表情が柔和であればあるほど、梅野の心はより深い奈
落へと落ちて行くのだった。
桑田の懸命の処置が功を奏し死の淵からなんとか這いあがっ
てきた修一ではあるが、これからの一週間、その七日間が修一
にとっては本当の意味での生死をかけた闘いであることを思う
と、又、必死にとりすがる修一の母、姉、そして父たちのこと
を考えるにつけ、梅野は胸の奥底から突き上げてくる戦慄にも
似た感覚に押しつぶされそうになるのだった。
ハートモニターに映し出される波形は何の異常も伝えていな
かった。危険なカケであった。
一般的に言われている植物状態患者の定義は不明確ではある
ものの、
(1)自力で移動出来ない
(2)自力で摂取が出来ない
(3)糞尿失禁状態にある
(4)目は物を追うが、認識は出来ない
(5)「手を握れ」、「口を開け」などの簡単な命令には応
ずることもあるが、それ以上の意思の疎通が出来ない
(6)声を出すが意味のある発語は出来ない
などという状態が一ヶ月以上経過した症例を対象とし、前述の
六項目が三ヶ月以上経過した場合に、植物状態と定義していた。
又、学会で発表された植物状態患者の疫学的な実態調査の数
字は、植物状態患者219例中、208例について、
(1)219例中、14例(6%)が改善され植物状態を脱
却し、80例(36%)が死亡、110例(50%)
が不変であった。
(2)脱却例は年齢が若い程高率ではあるものの、脳損傷の
種類とは関係を示さなかった。また脱却に至るまでの
期間は、80%が二年以内に脱却していた。
(3)死亡例は高年齢群で高率であり、死因は主として肺炎
等の感染、心、腎不全等によるものが多かった。
(4)死亡に至るまでの期間は、死亡例の50%が二年以内
に死亡、三年以上生存したものが31%、五年以上の
生存例が7.5%にみられた、等と報告されていた。
数字の上でみる限り、6%の脱却例があった。しかし、その
実体は植物状態の認定基準の六項目をみたさなくなった症例で
あり、殆どのものが寝たきりの状態、糞尿失禁の状態であった
とも報告されていた。
ソファーに深く沈み込んだ梅野は、ゆっくりと視線を窓外に
移していった。十五階の窓から見える街の風景は夕闇の中に新
しい化粧を施し、海に落ちる夕日にキラキラと輝いていた。ド
アーが静かにノックされ桑田が入ってきた。
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「梅野先生、中谷修一の容態ですが、どうなんでしょうか、
やはりダメなんでしょうか・・・」
「桑田君・・・」
「梅野先生! じゃあ彼は・・・!」
「桑田君、我々は医師として出来る限りのことは試みた。生
命も取り留めた。
今の医学で出来ること、可能な限りの努力はしたはずだ。
そして次に起こる事態にも十分に対応出来るだけの準備も
出来ている。しかし、桑田君、今の我々に一体何が出来る
と言うんだ。奇跡が起こるか、医学が急速に進み、植物人
間を甦らせることが可能になるまで、今我々に出来ること
は何もないんだ・・・」
「でも先生それでも彼は生きていると言えるんでしょうか?」
「・・・そう、人工栄養と十分な医療器具の中では、確かに
死んではいない。だが桑田君、今、彼に死を宣告すること
が出来るのは、君だろうか、それとも僕なんだろうか・・。
医学は確かに長足の進歩を遂げている。そして我々脳神経
外科医の技術も、薬品も、研究され、進展してきた。中谷
修一というクランケの場合も、十年前なら確実に死んでい
ただろう。しかし、今は生きている。少なくとも自分で呼
吸をしているんだ・・・・・」
「・・・」
「たとえ回復の見込みのない植物状態であろうとも、心臓が
動いている限り、熱い血が彼の身体の中を駆け巡っている
限り、我々は彼と共に闘い、彼の苦しみを理解し、彼を生
存させるための最大限の努力をしなければならないんだ!
桑田君、君の言うとおり、彼の思考はすでに停まっている。
しかし、身体は生きているんだ・・・」
「・・・」
「欲望もなく、生に対する執着もない、ただあるのは、心音
と呼吸だけ! そんなクランケでも我々と同じ人間なんだ
よ。同じ人間として、また医師として、我々は彼を生存さ
せるための努力と希望は、決して捨て去ってはいけないん
だ・・・」
梅野は、自分の熱い声を自らの耳で確かめながら、語り続け
た。植物人間という冷たい言葉に対する人間としての憤りと、
現代医学の限界を普通人よりは一歩先に知ってしまった医師と
しての立場に呪いを感じながら、忍び寄る諦念をその語気によっ
て払いのけようとでもするかのように、気迫を込めて語り続け
た。
過去にも幾度かこんな場面はあった。しかし、梅野も桑田も
初めてのケースであるかのように、語りあった・・・。
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