理想と現実



3月16日
 自分が本当にやりたいこと、特に犬に関しての夢はというと、
今自分が行っている五色台の野生児たちに対する給餌とか、す
れ違う野良君たちに犬缶を与えるとかというものでは断じてな
いことは確かである。

 本来犬を飼うとか犬と暮らすとかいうことは、愉しく歓びに
満ちたものでなければならないものだと想像している。何故想
像という言葉を使うのかというと、現在自分が置かれている立
場が、自分の理想とするところとは全く違った、およそ考えも
しなかった状況に立たされているからである。

 自分本来の夢というか目標としていることは、適当な田舎の
山の中で広い土地を求め、そこに小さな山荘を建てる。そして
昔から一緒に暮らしたいと思っていたグレートピレニアン、ゴ
ールデンリトリバーそしてビーグル、また今家にいるベンジャ
ミンや蘭たちと共に静かに晴耕雨読の生活をするということで
あったし、そのための準備も着々と進めてきたのである。

 しかし現実はというと、五色台の野生児たちへの給餌を始め、
各所で否応なく出逢う捨て犬たちとのどうしようもない、逃げ
ることのできない最低限度の交流というか、付き合いの中に埋
没せざるを得ない状況が存在し、継続しているのである。

 勿論生来の犬好きという性格も大いに手伝ってはいるのだろ
うとは思うものの、主に捨てられ、行き場所もなくじっと哀し
い目つきで人々を見つめているワンちゃんたちに遭遇したとき、
その哀しみの中に見える、裏切られても裏切られてもなお人を
信じ人に頼りきっている彼らから、目をそらすことはおろか、
自分の限界などというものを考え、判断する余裕すらなくなろ
うとする、まさにせっぱ詰まった状況に追い込まれるのであっ
た。

 一瞬の躊躇により、彼ら野良君たちの生命の安全すら確保で
きなかった哀しい記憶は枚挙するに暇がないほどであるという
現実から、どう判断し、どう行動すればいいのであろうか!

 「どうしようもない、不可避の理由」により飼い犬を捨てた
人々の後始末を、ただ哀しみと挫折感の中で黙々と続けなけれ
ばならない自分の性格をいったいどう変えたらいいのだろうか!
 掌に預かることのできるものは、本当に少なく小さなもので
しかないことも、できることのあまりにも少ないことも十分に
理解しているつもりである。

 「どうか目の前に現れないで欲しい。これ以上不幸な哀しい
状況の子供たちに逢わせないで欲しい!」そう願いながら日々
を過ごしているにもかかわらず、有無をいうことのできない場
面や状況に追い込まれることのいかに多いことか。

 直近の例としては、登山口の桃子のことが挙げられる。「私
が何とか面倒を見ます」という言葉をありがたいという思いで
聞き、「これで何とか桃子も幸せになってくれるだろう」と思
う間もなく「やっぱり家人に反対されました」という言葉を聞
かされたとき、どう判断し、どう行動すればよかったのだろう
か?

 考える暇はありえなかった。対面している自分があらゆる困
難な状況を無視して馬鹿になりきらなければ、桃子はまた捨て
られるか、保健所への道を辿るかもわからない状況がそこに存
在していたのである。

 それが馬鹿な選択なのであろうか、ただ犬馬鹿と言われ、嘲
笑の対象になることでしかないのであろうか?

 「どうしようもない理由・・・」「私一人ぐらいが・・・」
という考えが横行している今の世情で、逆に「たった一人でも」
「私ぐらいが何をしてもどうなるものでもない・・・でも何か
一つでも・・・」と考え行動することが、小数意見であり、犬
馬鹿の行動であるということだけで、一瞥もされない社会情勢。

 悲しみと哀しみに押しつぶされる実にバカげた行動であり、
極々数少ない生き方であると、十分に理解しているつもりであ
る。そんな馬鹿な人間が押しつぶされることのない時代がいつ
かくることを願い、信じて行くしかないのであろうか!